徒然:読売tv番組「天才とは何なのか・・」A(〜B)   戻る

資料集的に。[web]より、 注釈。

 

Aでは「ダ・ヴィンチ」の、おおよそを掴めるようにWEBの引用を

多く使わせていただきます。

Bでは はやかわ、データ中心です。

 

番組での

「ジョコンダ」妊娠説は「手」の位置 まとった黒い衣装などを見ると 

一瞬「そうかな」と、思わせる。

それより 依頼主のいない「モナリザ・ジョコンダ」を生涯持ち歩いた、

ことに興味を持ちます。

女性に恋することが あった、と すれば 簡単に納得できるのですが、、、。

製作・作画の上で愛着、執着がそうとうあった、と 単純に考えるようにしています。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

レオナルドダヴィンチについて 

Leonardo Da Vinci 1452〜1519

イタリア・ルネッサンスを代表する偉人レオナルド・ダ・ヴィンチ。
本業は画家であるが、その業績は一言では表現できない「万能の天才」である。

出身地はイタリアのヴィンチ村。レオナルド・ダ・ヴィンチとは

ヴィンチ村のレオナルドという意味である。

彼の残したノートには、おびただしい量の工学、医学、天文学、流体力学、

幾何学、音楽などのアイディアが、芸術的な図とともに記されている。
ノートに書かれた文字は鏡に写したように左右が反転しているのもおもしろい。

菜食主義者であったとか同性愛者であったなどの説もあるが、定かではない。
注意欠陥・多動性障害(ADHD)であったともいわれている。

彼の好奇心は一つの所に留まっていてはくれなかったのだろう。
そのため完成した絵画は数少ないが、その作品には孤独な叡知が冷たく宿る

1512自画像 1000pixs 12kb down

自画像 (ではないという説もある)

Leonardo Da Vinci 14521519 8kb leonard1

 

ダヴィンチの生涯: 

 

1452年 

4月15日の夜、公証人(弁護士兼会計士)

セル・ピエーロ(Ser Piero) と 

カテリーナ(Catherine) の息子として誕生する。

ヴィンチ村と

その郊外で幼少期を過ごす。

1464年 

義母アラビエーラ死亡。

 

1466年 

父親に連れられてフィレンツェへ行き、ヴェロッキオの工房の

徒弟となる。

1473年 

ヴェロッキオの「キリストの洗礼」(ウフィッツィ美術館蔵)で

天使の絵を描く。

1476年 

「受胎告知」を描き始める。1479年完成。

1480年 

「聖ヒエロニムス」を描く。

1481年 

「東方三博士の礼拝」(ウフィッツィ美術館蔵。未完成。)を頼まれる。

1482年 

ミラノのルドヴィーコ・イル・モーロ宮に移る。

1483年 

「岩窟の聖母」(ルーブル美術館蔵)を描き始める。

1484年 

「白貂を抱く女性」を描く。 

(ボッティチェリが「ヴィーナス誕生」を描く。)

1490年 

サライが弟子になる。

 

1495年 

ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会で「最後の晩餐」を描く

 

最後の晩餐は写真の左側にある、ここには写っていない

「食堂」にあります

 

1496年 

数学者のパッチョーリ(Luca Pacioli)と親しくなる。

1499年 

フランス王ルイ12世の侵攻により、ルドヴィーコ・イル・モーロが

没落したため、ミラノを後にする。数ヶ月間マントヴァと

ヴェネツィアを旅した後、ふたたびフィレンツェに戻る。

 

1502年 

建築家であり、軍事技術者でもあるチェーザレ・ボルジアに

雇われる。

法王軍の軍事総監督として、ボルジアやマキャベリと一緒に

ロマーニャ地方を旅する。

1503年 

フィレンツェに戻り、ヴェッキオ宮殿の「五百人の大広間」

で「アンギアリの戦い」を描き始める。

1504年 

「モナリザ」(パリ ルーブル美術館蔵)を描き始める。

父セル・ピエーロが死亡。

(ミケランジェロが「ダヴィデ像」を完成。)

1506年

〜1508年 

フィレンツェとミラノを行き来する。

1508年 

フランスの王、ルイ12世に雇われて5年間

ミラノの首都ロンバルドに住む。

1509年 

「聖アンナと聖母子」(ルーブル美術館蔵)を描く。

フランチェスコ・メルツィを養子にする。

1513年 

ミラノを離れ、フィレンツェを通り、

ジュリアーノ・ディ・メディチの後援の下でヴァチカンの

ベルヴェデーレ宮殿に三年間住む。

1516年 

ジュリアーノ・ディ・メディチが死亡。

1516年 

メルツィを連れてローマからフランスへ。

フランソワ1世の後援の下で残りの人生を過ごすことになる。

1519年 

5月2日アンボワーズ城の近くのクルーの館(Clos Luce

で死亡。聖フロレンティン教会で葬られる。

 

フランチェスコメルツィは通称「サライ」のことか?

 

フランチェスコメルツィ, 聖家族, 1510以後, 油彩、
木の板, 97×71.5, プラハ国立美術館

メルツィの作品:どのような作風かは分かりませんでした。

フランチェスコ

・メルツィ

聖家族

1510以後

油彩、木の板

97×71.5

プラハ国立美術館

 

Memo

1508年、フランス王のルイ12世に雇われ、ミラノに移り、1513年にフランスがミラノから追い出されるまでの7年間、ミラノで自由に活動することができました。その間、
1509年に「聖アンナと聖母子」を描いています。
また、同年フランチェスコ・メルツィという少年を養子にしていて、
彼はレオナルドが亡くなるまで傍についていました。
そして1513年、ルイ12世がいなくなるとミラノを離れ、ローマへ行きます。

 

ダ・ヴィンチが愛称?「サライ(小悪魔)」と呼んでいたのは メルツィのようです。
諸説あります。
わたしには この呼称が、ダ・ヴィンチの自己嘲笑をも含んでいるような気がしています。
ダ・ヴィンチは「弟子」が金銭をチョロまかすのを知っていながら 
叱らずに細かい金額まで書いて残しています。
わたしの神様は 怖いことをなさる、と思っていたのですが、偏愛だとすると 
ホッとするような、悲しいような。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

アンギアリの戦い と 解剖図

アンギアリの戦いのための習作

ブダペスト国立美術館

14kb  angi_head

TV番組について、でも述べましたが、

「老人」の顔あれこれ 「使徒」の顔・姿態いろいろ

記憶をまとめる、記憶を描き留めて 類別化する

というのが“天才”の手法のように思います。

若いころの 銀筆による衣装のデッサンなどは 

あきらかに 見ながら写しています。

わたしのような好事家にはデッサンにはデッサンの

楽しみが有る。

デッサンが表現・創造のための重要な手段であると

実感するまでには ずいぶん時間がかかりました。

ダ・ヴィンチのデッサンは「写して」いるのではなく、

「創造」するための資料を「創って」いる、のを 

実に感じさせてくれます。 

しかも「技・ワザ」が尋常ではない。

わたしには「神の領域」に居る方、です。

タヴォラ・ドリア

レオナルド自身によるものともいわれる

24kb  angi

 

 

アンギアリの戦い模写・ルーベンス62kb  anghiari

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

ヴィトルヴィウス的人間

紀元前1世紀頃のローマの建築家ポッリオ・ヴィトルヴィウスは、著書「建築論」のなかで、腕を伸ばした人間は円と正方形の両方に正しく内接すると主張した。ダヴィンチはこれに感銘を受けたようである。

「両腕を広げた時の長さは背丈に等しい。」
 「身長が14分の1だけ低くなるように両足を広げ、さらに両腕を伸ばして中指が頭のてっぺんと同じ高さになるまであげる。このように伸ばした手足の先をよぎる円を描くと、その円の中心にこの人のへそが来る。また、両足の先の間の間隔と両足とは正三角形を作る。」

 描かれている人物は40歳頃のダヴィンチ自身であるという。 (ヴェネツィア アカデミア美術館蔵)

 

ヴィトルヴィウス的人間28kb  vitrv

 

永久運動の不可能性の証明

レオナルドは、当時多くの議論が交わされていた永久運動の不可能性を、図で説明した。右の図は、当時考えられたいくつかの永久機関のうちの一つである。

 「おもりが動きを支配しているこの車輪にどんなに重いおもりをつけても、そのおもりの重心は疑いなく棒の中心で止まるだろう。そして、人類の英知が発明した、軸で回転するどんな器具も、そのような効果を避けられないだろう。」

 「ああ、永久運動の信奉者たち、あなた方はそのような研究でどれだけ多くの様々な才能を創りあげてきたことか!あなた方は金をさがしていた人たち(魔術錬金術師)と同じ範疇に属している。」

 

 

 

 

永久運動の不可能性の証明 21kb  impossibility

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

水に関する研究
Hydraulics

 

水に関する研究pool 45kb

 

浚渫(しゅんせつ)船

浚渫(しゅんせつ)船57kb dredge

 

―――――――MEMO: 資料―――――――

 

MEMO: 資料

フランチェスコメルツィ関連  

 

レオナルド・ダ・ビンチ(1452〜1519)イタリア 美術家・科学者

フィレンツェの近くの村のビンチ村で公証人の子として生まれました。村の名前にちなみビンチ村のレオナルドレオナルド・ダ・ビンチと呼ばれました。10台半ばで、フィレンツェに出て、芸術家アンドレア・デル・ヴェロッキオのアトリエで美術を修行し、その後、独立し、独立後は求めに応じて絵画や兵器デザインから建築・土木までの幅広い分野で活躍し、天才の名を欲しいままにしました。

1495年、ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会で「最後の晩餐」を描き、1502年には、建築家であり、軍事技術者でもあるチェーザレ・ボルジアに雇われ、法王軍の軍事総監督として、ボルジアやマキャベリと一緒にロマーニャ地方を旅をしたりしています。1504年に「モナリザ」を描き始め、その後、フランス王ルイ12世に雇われて、宮廷画家となり、ミラノの首都ロンバルドに住み、1509年に、フランチェスコ・メルツィを養子にしています。
 
1513年に、ミラノを離れ、フィレンツェを通り、ジュリアーノ・ディ・メディチの後援の下でヴァチカンのベルヴェデーレ宮殿に3年間住みますが、メディチが亡くなり、メルツィを連れてローマからフランスへと移り。フランソワ1世の後援の下で残りの人生を過ごしました。

1519年5月2日アンボワーズ城の近くのクルーの館で亡くなりました。聖フロレンティン教会で葬られました。

代表作は「モナリザ」「最後の晩餐」「受胎告知」など。遠近法を用いて雄大な構図と、豊かな感覚で立派な絵を残しています。また彫刻にも優れていました。
科学者としては解剖学の研究により人体の各器官の働きや心臓の作用、血液循環の原理を追及しました。そのことによって、彼の描く絵は真に迫っていたと言われています。

天文学、物理学、地理学、水利学、土木学、機械学、造兵学等自然科学のあらゆる方面に、その才能を示し、ルネサンス期の人々が理想とした「万能人」の典型とされました

 

レオナルド・ダ・ビンチは歴史上でも指折りの知識人で、画家としても、エンジニアとしても、思索家としても優れていました。
かの「最後の晩餐」に着手する直前、レオナルドはある画家仲間と激しい口論をしてしまいました。その憤りと苦々しい思いは甚だしかったので、レオナルドは、相手の画家をモデルにして,イエス・キリストを裏切ったユダを描くことでうっぷんを晴らそうと決意したのでした。こうすれば、復讐が果たせるし、後世にまでその画家の顔に泥を塗ることができます。というわけで、ユダの顔は一番初めに仕上げられました。レオナルドが大口論をした相手の画家がモデルであることは、誰の目にも明らかでした。
 ところが、キリストの顔を描こうとすると、一向に筆が進まないではありませんか。何かが彼を妨げているようで、懸命の努力にもかからず失敗の連続でした。そこでとうとうレオナルドはある結論に達しました。その進行に歯止めをかけ挫折させているのは、ユダの顔を自分の敵の顔に似せて描いたからだと悟ったのでした。そこでレオナルドは、ユダの顔をぬり消して、それからまた、イエスの顔を描き始めました。すると今度は成功し、この絵は、時代を超えて多大な賞賛を受けてきました。
 他の人の姿を敵がい心と憎悪とで描く一方で、自分自身の生き方を通してキリストの姿を描くことなどできません

 

美しい歌声の持ち主だったレオナルドは、音楽家として雇われることもあったそうです。彼は、作品のほかにも科学や医学など様々なアイディアが詰まったノートを残しています。あまり知られていない彼の作った音楽もそんな中にあり、その曲は数小節とはいえ4パートで構成されており、この頃には珍しく、不協和音で始まっています。

 

1519423日クルー城で「死の確実なことと、その時期の到来が不明なため」遺言状を口述し52日死去、812日アンボアーズのサン・フロランタン聖堂で葬儀が執り行われました。レオナルドの墓は、その後の戦乱で暴かれ、当時の棺桶は鉛でできていたらしく銃弾の材料に、遺骨は共同墓地へ埋葬され、現在は不明です。

 

「噂の真相」的に 物事を知るのは 往々にして不愉快になることがあります。はやかわ

 

高橋@えかき  メモ (資料)

ダヴィンチの生涯

1452年  4月15日の夜、公証人(弁護士兼会計士)セル・ピエーロ(Ser Piero) と カテリーナ(Catherine) の息子として誕生する。ヴィンチ村とその郊外で幼少期を過ごす。
1464年  義母アラビエーラ死亡。
1466年  父親に連れられてフィレンツェへ行き、ヴェロッキオの工房の徒弟となる。
1473年  ヴェロッキオの「キリストの洗礼」(ウフィッツィ美術館蔵)で天使の絵を描く。
1476年  「受胎告知」を描き始める。1479年完成。
1480年  「聖ヒエロニムス」を描く。
1481年  「東方三博士の礼拝」(ウフィッツィ美術館蔵。未完成。)を頼まれる。  
1482年  ミラノのルドヴィーコ・イル・モーロ宮に移る。
1483年  「岩窟の聖母」(ルーブル美術館蔵)を描き始める。
1484年  「白貂を抱く女性」を描く。 (ボッティチェリが「ヴィーナス誕生」を描く。)
1490年  サライが弟子になる。
1495年  ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会(下の写真)で「最後の晩餐」を描く。
1496年  数学者のパッチョーリ(Luca Pacioli)と親しくなる。
1499年  フランス王ルイ12世の侵攻により、ルドヴィーコ・イル・モーロが没落したため、ミラノを後にする。数ヶ月間マントヴァとヴェネツィアを旅した後、ふたたびフィレンツェに戻る。  
1502年  建築家であり、軍事技術者でもあるチェーザレ・ボルジアに雇われる。法王軍の軍事総監督として、ボルジアやマキャベリと一緒にロマーニャ地方を旅する。
1503年  フィレンツェに戻り、ヴェッキオ宮殿の「五百人の大広間」で「アンギアリの戦い」を描き始める。
1504年  「モナリザ」(パリ ルーブル美術館蔵)を描き始める。父セル・ピエーロが死亡。(ミケランジェロが「ダヴィデ像」を完成。)  
1506年〜1508年  フィレンツェとミラノを行き来する。
1508年  フランスの王、ルイ12世に雇われて5年間ミラノの首都ロンバルドに住む。
1509年  「聖アンナと聖母子」(ルーブル美術館蔵)を描く。フランチェスコ・メルツィを養子にする。  
1513年  ミラノを離れ、フィレンツェを通り、ジュリアーノ・ディ・メディチの後援の下でヴァチカンのベルヴェデーレ宮殿に三年間住む。
1516年  ジュリアーノ・ディ・メディチが死亡。  
1516年  メルツィを連れてローマからフランスへ。フランソワ1世の後援の下で残りの人生を過ごすことになる。
1519年  5月2日アンボワーズ城の近くのクルーの館(Clos Luce)で死亡。聖フロレンティン教会で葬られる。

ヴィトルヴィウス的人間

 紀元前1世紀頃のローマの建築家ポッリオ・ヴィトルヴィウスは、著書「建築論」のなかで、腕を伸ばした人間は円と正方形の両方に正しく内接すると主張した。ダヴィンチはこれに感銘を受けたようである。

 「両腕を広げた時の長さは背丈に等しい。」
 「身長が14分の1だけ低くなるように両足を広げ、さらに両腕を伸ばして中指が頭のてっぺんと同じ高さになるまであげる。このように伸ばした手足の先をよぎる円を描くと、その円の中心にこの人のへそが来る。また、両足の先の間の間隔と両足とは正三角形を作る。」

 描かれている人物は40歳頃のダヴィンチ自身であるという。

 また、確かな記憶ではない上にホントかどうか解らない話だが、地球外の人類以外のもしかしたらいるかも知れないという知的生命体に向けて送ったロケットに搭載したデータの中にこれが含まれているという。



(ヴェネツィア アカデミア美術館蔵)

たかはし@えかきの浅い知識より

 パワーある人の横でちょこっと私の考えというか知識を描きたいと思います。これを描いて頭の中からこの記憶を消そうと思っております。記憶を消すことについてはアインシュタインのほうをご参照くださいますようお願いいたします。

本で読んだ知識ですがフィレンツェのあのころはやはり宗教関係の絵が多かったのでしょう。宣教活動のため、信者にすばらしい世界を教え込む?ために美しい絵を必要としていた流れの中の時代だと思います。

よってそのころのえかき(宮入り)は食っていくために聖書の中の世界を書いていたのだと思います。私はあまりほかの方の絵を見ない人なので、そのころの時代にもうすでにラピスラズリーを砕いて作った高価な絵の具、ウルトラマリーンブルー、別名、マラリアブルー(マリアブルー)をマリア様の衣服に特別に使っていたかどうか記憶が確かでないです。

何がいいたいか解らなくなってきましたが、とにかくこれを書いているときにその色が使われていたのかどうかが確かではない事を言いたかった?です。そこちょっと興味がありますが別に詳しい方にそのことはお任せして話を進めます。

話がどんどんとそれていってしまう。悪い癖だと自覚してますがなかなか気に入っている癖でもあるのでそのままです。

とにかく、私が彼についての本を読んだのはとても古い病院の待合室です。話に聞くとこの病院、そのあたりが一面戦争(第二次)で焼け野原だったときも運良く残っていた病院だそうで、今行ってもとても情緒のある、影のしみこんだ木造とコンクリートの古い病院です。夏、涼しかった。

スペース終わりなんでここらへんで結局彼についてはあまり書いてない・・・。

  Copyrightc1997-2003 masano TAKAHASHI/高橋雅乃 All Rights Reserved

 

 

MEMO

「結婚しなかった男たち」

レオナルド・ダ・ビンチ(1452-1519


レオナルドは美形であった。17歳のころ同性愛者と伝えられているヴォロッキォに弟子入り、20歳で画家組合の親方の資格を得る。当時、多くの芸術家が同性愛者であった。ヴォロッキォもレオナルドも生涯独身で通したのも証拠はないがそう思われている。その証を1490年、ミラノ郊外に滞在していた38歳のレオナルドは、ジャン・ジャコモ・カプロッティという10歳の美少年(通称:サライ)と出会い、彼を引き取り一緒に住む。レオナルドの性に関することがらは彼の私生活と同様、霧の中にある。 150755歳のレオナルドはフランチェスコ・メルツィという14歳の美少年を弟子として迎えた。レオナルドはサライとメルツィと2人をそばにおいた。1519423日、死の一ヶ月前遺言状を書き多くをメルツィに、サライにはミラノに所有する庭園の半分と家屋を与えた。

  (参照:「結婚しなかった男たち」 北嶋廣敏--太陽企画出版)