さきちゃんのお母さんは、よくCDを買って来ます。
さきちゃんの知らないクラシックの曲ばかりです。
聞くだけではありません。
さきちゃんと二人だけの時には、いろいろな曲をハミングします。
これが実は、とても迷惑なのです。
なぜって、お母さんは〜救いようのない音痴だからです。
たまたま学校で習っている曲を、お母さんに歌われたこともあります。
さきちゃんは頭が混乱しそうになって困りました。
「主よ、人の望みの喜びよ」という曲のピアノ版を聴いたさきちゃんが、
「好き」といったら、お母さんは自信たっぷりに
「たら、りらり、りらり、りらり〜」と口ずさみ始めました。
そのメロディーが、どうしたら、こんなに変えられるのだろうと
思うぐらいに違っているのです。
さきちゃんは<主も、さぞ怒るだろう>と思いました。
まったくでたらめの、おかしな歌を口ずさむこともあります。
洗濯物を干す時、「一のお仕事、どんどんなりけりや」と歌いながら、
最初のタオルをかごから取り、
「一のお仕事、こんこんなりけりや」と吊るし始め、
「一のお仕事、終わりなりけりや」といって干し終わります。
その次が、「ニのお仕事」になるわけです。
これは何度も聞きました。
秋になったある日のことです。
夕食の時、お母さんが、さばを煮ていました。
あたりはしんと静まり返っています。おみその香りが台所に広がります。
さきちゃんは、テーブルに向かって、宿題をやっていました。
その時、お母さんがゆっくりと歌いだしたのです。
「月のー砂漠を
さーばさばと
さーばのーみそ煮が
ゆーきました」
さきちゃんは、思わず鉛筆の手を止め、いいました。
「〜かわいい!」
「え?」
「今の」
お母さんは、みそ煮をお皿に取りながら、
「そう?」
「うん。広―い広い砂漠を、さばのみそ煮がとことこ行くのって、
とっても、かわいいじゃない」
「・・・なるほど」
教科書とプリントを片付けて、ご飯になりました。
お母さんは静かです。何か考えているようです。
|
|
「どうしたの」
「うん。あのね、さきが大きくなって、台所で、さばのみそ煮を作る時、
今日のことを思い出すかな、って思ったの」
「〜かもしれない」
お母さんは、豆腐のおみそ汁を一口すすって、
「お母さんが<一のお仕事>っていう、でたらめ歌を歌うことがあるでしょ」
「うん」
「あれ。お母さんが子供の頃、お母さんのお父さんが一回だけうたったの」
「おじいちゃんが?」
「そう、お母さんが、ちょうどさきぐらいの時よ。日曜日で寝坊してたの。
そうしたら、お父さんが横の自分たちの布団をたたみ始めた。その始めに
<一のお仕事、どんどれなりけりや>っていったの」
「へえー、信じられない」
おじいちゃんは三年前に亡くなりました。
さきちゃんのお絵描きを持って行くと嬉しそうに、にこにこしてくれました。
長いこと、学校の先生をしていたそうです。とてもまじめそうで、
でたらめ歌を歌うようには見えませんでした。
「そうでしょう。普段は、冗談なんかいわなかった。だから意外だったの。
わたし、おかしくって寝ながら笑っちゃった。そうしたら、ぴょんぴょん踊るような
格好をしながら、<一のお仕事、こんこれなりけりや>って続けるの。
おかしっくって寝ながら笑ちゃった。そうしたら、
ぴょんぴょん踊るような格好をしながら、<一のお仕事、こんこれなりけりや>って
続けるの。おかしっくってお腹が痛くなったの」
さきちゃんの頭に、小学三年生のお母さんが、布団から首を出して、
大笑いしているところが浮かびました。
その夜、さきちゃんの脇に、ごろんと横になったお母さんは、
「今日は遅いから、お話しはなし。はい、お休み、お休み」
といいました。そして、掛け布団を首のところまで引っ張り上げ、
すうすうと寝息をたてるまねをします。でも、疲れていたのか、
まだ着替えてもいないのに、本当に寝てしまいました。
さきちゃんは、口の中でつぶやきました。
「月の砂漠をさばさばと・・・、さばのみそ煮がゆきました・・・」
そして、小さな手を伸ばし、お母さんの指をそっと握りました。
|