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個人を偲ぶ

久保雄志君の思い出

山岸忠雄

 一九九八年八月二十六日に久保雄志君は、癌のため五十三歳で俗界を去った。
 訃報に接して、また一人仲間が減ってしまったという一抹の寂しさと「なぜ、急ぐのか!」という怒りと無限の無念の思いが、胸といわず頭といわず身体全体を埋め尽くした。でも、出る言葉は「久保は亡くなった。嗚呼、そうか……」と全くむなしい響きしかもたらさない。
 彼との過ぎし日々が走馬灯のように頭の中を駆け巡って来た。振り返ってみれば、彼と私とは同じ同期の中でも、立高卒業後も同じ道を歩んでいた関係で、人生の折々の出来事の現場にお互い居合わせる事が多かった。ICU(国際基督教大学)の学部・大学院に一緒に進学したこと、福地崇生教授に師事し同じゼミ(通称、福地ゼミ)に入っていたこと、そして、大学院卒業後アメリカの大学院に留学したこと、さらには、生涯の伴侶となる広島千恵子さんを口説いたこと等、高校時代から十数年の青春時代をともに歩んできた間柄である。
 ICU時代、彼は、スポーツはサッカー、音楽はギターとフルート、漫画は少年マガジンの「巨人の星」にひたすら夢中であったが、勉学にも一生懸命で、実にエネルギッシュで充実した学生生活を満喫していた。私だけでなく同僚や先輩達も、小柄な彼の何処にこれほどのエネルギーがあるのかと不思議にさえ思えるような活躍であった。
 思い出の中で印象に残ることは数多くあるが、敢えて一つ挙げるとすれば大学四年の時であろう。当時、ICUも大学紛争の時代にあり、学生占拠とそれに続く大学側の大学封鎖のためゼミ研究室が使えず、週一日のゼミ開催(福地ゼミ卒業の大学院生も参加する)を条件に、我々現役四年の五人は福地先生が借り上げてくれたアパートに数ヶ月間共同生活をすることになった。皆それぞれアルバイトや勉強にはげみ、時には碁や麻雀にも熱を入れていたものである。特に、麻雀は必ず週一日かかすことなく興じていた。金は賭けず名誉だけを賭けていた。
 その時、麻雀パイを福地先生の家に借りに行く役をいつも久保君が担当していた(と言うより、他の四人がやらせていたと言ったほうが正しい)。その麻雀においても、ギターやフルート、サッカー、勉強と同様、たとえ遊びとはいえ、ただひたすらに、かつひたむきに一心不乱集中して臨む態度は決して変わらない。仲間でよく言ったものである、「久保が顔を上げたら、てんぱった証拠である」と。
 共同生活では、よく夕食に八丈島出身の女主人が切り盛りしていた「あしたば」という食堂に通ったものである。その食堂は、久保君が家庭教師をしていた「広島家」の近くにあった。その頃から、時々「アルバイト先に、かわいいお姉さんがいるんだ」と言うことを公言し出した。それから約二年間、大学院に行ってからもずっと聞かされ続けた。
 やがてフルブライト奨学生留学と大学院卒業が決まり、それまでに結婚の約束を是非交わしたいと久保君は必死であった。
 海外生活と将来の大学教員生活という、千恵子さんにしてみれば未知の世界に大いに不安を感じていた事は、久保君以上に私のほうが理解していたが、彼女からなか

なかよい返事をもらえない久保君は、恐らく後にも先にもこれ以上はないと思われるほど悩んでいた。
 しかし、持ち前の一途な性格と純真さが、千恵子さんの不安を解消し、ようやく良い返事をもらうことが出来た。その時に久保君が全身で喜びを表わし
た、その姿は今でも忘れられない。
 久保君は常に全力を投じて物事に取り組んでいた。時には、熱中のあまり周囲が見えなくなり、それが故に自己中心的だと思われたり、周囲に対する気配りや相手の気持ちへの配慮に欠けると見られることも多々あった。
 それは、本人にとって見れば非常に心外であった事は確かである。彼には、そうした気持ちなど持ち合わせていないし、もともと裏表のない、実に純真な男であったのだから。
 その後、アメリカ・インディアナ州ラファイエットにあるパデュー大学大学院で博士号(経済学)を取得した。一時日本に戻り(財)電気通信総合研究所に勤務した後、世界銀行のジュニアプログラムの若手研究員として再度渡米した。
 一九八〇年に帰国して、筑波大学に奉職し、今日に至っていた。ICUの福地ゼミの集まりも、たびたび開かれていたが、誘いの連絡をするものの「教会の役があるので……」ということで顔を合わせる機会がなかった。
 教会の仕事をしているのか、そう言えば、彼の父親はクリスチャンだったことを思い出した。
 そうこうしているうちに、ICU卒業三十年のホームカミング同窓会が六月十五日に開かれ、他のゼミの仲間とともに今度は久保君に会えるだろうと期待したが、幹事から「今入院中で、出席できない」という返事を聞いた。
 「近いうちに見舞いにでも行こう」と他のゼミ仲間と相談していた矢先に訃報に接し、生きて会えるチャンスを逸してしまったことを今も悔やんでいる。
 土浦めぐみ教会で行われた「別れの会」に参列した多くの教会の方々を見て、ここでも久保君は一途にかつ一心不乱に教会のため、自分の使命を果たしたのだという思いを深くした。
 牧師さんが、久保君の「これですべて解決した」という最後の言葉を紹介された時、嗚呼、最も彼らしい言葉だと思った。
 一途で一直線の生き方、常に全力を傾けて生きていくことを最後まで貫き通した久保君の人生は、周囲の人々に様々な想いを投げかけたに違いない。それにしても「急ぎすぎた人生」だったと思うのは、私だけではないと思う。
 癌が発病して、六ヵ月余で久保君は不帰の人となった。ガン細胞も、久保君同様一途で一直線な性格だった気がする。
  お別れの会で、千恵子さん、娘さん、息子さん、それに、久保君の母親と兄弟、お姉さんに会い話をすることが出来た。
 残された久保君の家族にとってみれば辛いことと察するが、千恵子さんの気丈夫な姿としっかりした態度に「彼女なら大丈夫」と確信した。でも、何かあれば助けになってあげたいと思う。
 「大丈夫、千恵子は俺が選んだ人だもの!」
 と久保君が誇らしげに言っているのが耳元で聞こえる。「相変わらず、久保らしいなあ!」
          (久保君の冥福を祈って)

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