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個人を偲ぶ
 内田 泰明
 大村健について書く前に、自分自身のことから書く必要があると思うのでそれを許していただきたい。
 私は八王子の生糸商人の一人息子(下に三人妹はいる)として生まれた。幼少の頃の八王子は機業地として栄え、市内の中町界隈は連日三味線の音が絶えなかったという。
 しかし、機屋と違って商人の生活はいたって質素で、特に父はそんな繁栄ムードには一切背を向け、法華信仰と生活の質実を信条とした毎日を送っていた。さらに、息子の私にもその生きかたを半ば強制し、いわゆる「読み書きそろばん」以外は奢侈道楽として許されなかった。冬休みの神城山荘スキーなどは家での正月神事を理由に参加させてもらえず、少年ごころに泣きたくなるほどうらやましく思った。
 父は私を自分の縮小コピーとして育てたかったのだろうが、精神的弛緩が許されない生活は毎日が重苦しい日々の連続で子供の私にとってはそれは苦痛でしかなかった。正直のところ、商家なんか継ぎたくないと思っていた。加えて「五歳のときから母は義理だった」という事実は家庭における自分の居場所を奪っていた。厳格な父となじめない義理の母親、私はこの救いようのない状況からとにかく逃れたかった。そしてその逃れえた楽園が高校生活だった。
 高校時代の自分は精神的には絶頂期だったと思う。クラス活動、部活、また演コン、クラスマッチなどの課外活動に全身全霊をかけて取り組んだと今でも自信を持って言うことが出来る。
 勉強だって一生懸命やった。高校三年間は私の一生の中で一番輝いていた時だったかもしれない。いまから思えば快適なゆりかごの中のような時代。いつまでも続くはずのない・・・・。
 二年生の頃彼と出会った。彼は陸上競技、私はサッカー。スポーツをきっかけとして彼との付き合いは深まって行く。スポーツだけでなく勉学の面でもお互い競い合う良い意味でのライバル関係を作り上げていった。性格はいたって冷徹、感情を表に出すこともなく、物事を冷静に見据え、ズバリと思うことを言ってのける。他人は彼をニヒルと形容し、少々異端児的に扱っていたが、二人にとっては対極にいる人間としてお互いを補完しあう、いってみればウマのあう友人関係だった。しかし、残念ながらその時点では彼の気持ちの奥底に隠された心の悲しみには気がついていない。それが分かるのは彼が死んだあとだった。
 三年間は短い。快適なゆりかごから出て行かねばならないときが迫った。重くのしかかる現実から逃避しきれないことを自覚したとき、私は言い知れない不安と絶望感に支配され始め、それまでの一途で前向きな生活態度から一変して、なげやりで、反抗的で、自暴自棄の人間へと変貌していった。
 そして卒業。彼は現役で上智大学の英語学科へ、私は浪人生へ。卒業後も友人としての付き合いは続いていたのだが、私の変貌ぶりがそうさせたのだろう、次第に二人は遠ざかって行く。
 萩原朔太郎の一連の詩への陶酔、そばや「吾平」での痛飲による大ひんしゅくと、私はますます自堕落になっていく。それに対して、彼は以前からのひたすら前向きの姿勢を崩さず、大学入学後も一心に前進して行く。その努力が実を結び、「サンケイ・スカラシップ」の留学特待生を獲ち取り英国へ。出発直前に彼は私にズバリと言った。 「君のような考え方は僕はきらいだ」 それが彼の僕に向けた最後の言葉になってしまった。私はその言葉を一生心に留めおくだろう。
 英国からはその後二、三回便りが届いたきり彼との交流はなくなってしまい、数年の歳月が流れる。そして大学在学中だったか都心の会社に勤めている時期のことだったか忘れたが、或る時高校時代の友人の誰かが言った。「大村は死んだらしい」と。そいつも誰かから風の便りとして聞いたものらしい。それを聞いたとき、彼のあの最後の言葉が思い出された。
 私は彼の住所を訪ねてみた。期待に反して、応対に出たのは父親と名乗る方だけで、その方の言葉からは、息子をなくした無念さや悲しさは微塵も伝わってこないばかりか、話を聞いているうちにひょっとして二人の、父と息子としての関係はとても希薄なのではなかったかと感じるようにさえなっていた。悲しみを押し隠し、淡々と息子の死を受け入れて語っているとも思えず、どこか他人事めいた・・・・。 その方は別の住所を示し、そこを訪ねて欲しいと言い、一片のメモと一緒に私は遺品としてソフィアの文字の入った一個のペンダントを渡された。別の住所ってどういう意味だろう? そこは誰の住所なのだろう? 何も説明されないまま私は早々に辞去した。私はその足でメモに記された別の住所を訪ねた。しかし、玄関先に立ったとき、チャイムを押す勇気が出てこなかった。ここは母親の住所なのだろうか。そして父親と母親の関係も希薄だったのだろうか。彼の本当の居場所はここだったのだろうか。そんな取り留めのない想像が次々と脳裏をかすめたあと、事実を知らないままでいたくて私はそっと玄関先を後にした。
 そういえば彼は家庭のことは一切口にしなかったな。父親のことも母親のことも、兄弟のことも語らなかったな。私はそんな彼のことをちっとも分かっちゃいなかったのだ。本当はあの頃の彼は私以上に悩みの底にいたのかもしれない。
 そして彼はあの頃の私に、自分を重ねていた。だからこそ、あのときの私の生き方に言いようのない怒りを感じていたのに違いない。私は現実に負け、彼は負けずに耐えつづけた。しかし、残念ながら彼の一生は短かく終わった。
 健よ、安心してくれ。いまの私はあの頃の心を取り戻している。一途でまっすぐで真剣で、絶えず前を向いて歩いて行く、そういう心でずっと生きて行くつもりだ。
あとがき――――これを書くことによって、彼のことで心の底に何十年間よどんでいた物がようやく晴れたような気がする。しかし、彼について事実誤認のまま想像だけで表現したかもしれない。でも、何十年も前の青春の一こまの出来事として許していただきたい。

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