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個人を偲ぶ
 梅原 幸子
 七年前の平成四年十一月二十五日、享年四十八歳の若さで、浜村道子さんは私達に深い悲しみを残してあっと言う間に旅立ってしまった。
 小海線の野辺山駅に降り立つたび、二十歳代の道子さんと訪れた当時の事がつい昨日のように思い出される。まだ人気もなく、無人駅のようなのどかな野原で撮った二人の写真が大切な思い出となっている。「五十代になったらあちこちゆっくり旅をして食べ歩こうね。その時はお互いどうなっているのかしら?」等、話し合っていたのに……。
 道子さんは、旅が好きで自然を愛し、どんな花をも心から愛しみ大事にする人だった。
 当時、彼女は若いながら草月流・浜村秀峰の名前を持ち家元の勅使河原霞先生にかわいがられ、私も幾度か師範の方々の作品展に付いていき、生け花の美しさ、未知の世界の華やかさに酔ったものだった。そして、彼女の秘めたる美の追求、華美さを抑えた生け花の表現法等、花に対する探究心は底知れず、道子さんの人柄、品格を表わしていた彼女の作品が、素人ながら私は大好きだった。
 そして、時代の流れをいちはやく読み取り、本当は生の花が大好きなのに、「これからはフラワーデザインや花全体のことを知らなければ!」と上野まで夜間の講習に通い、自らの進むべき道をまっしぐらに突き進んでいった、そんな彼女の芯の強さ、行動力に、ただ感心していた私であった。
 私が出産後、実家へ帰る度いつも花いっぱい抱えて来てくれ、我が娘の誕生を心から喜んでくれたやさし
い笑顔が今でもハッキリ思い出される。 そして、娘達に早くお花を教えたいと言っていたのに……。
 しかし、私が三人の子育ての真っ最中、時々夜遅く(確かそれも岡山だったり、福岡だったり、そしてニューヨークだったり)、電話がかかり「今、明日のフラワーデザインのコンクールで○○に来ているの。神経が昂ぶって眠れない、心配でこわくて逃げ出したい……」彼女の切羽詰まった電話に私は、多分あいまいに「貴女なら大丈夫よ」そんな素っ気ない返事をしていたような気がして、申し訳なさでいっぱいになる。でも、必ず結果は金賞を獲得していた道子さんであった。
 亡くなられる五年位前まで、私の誕生日には毎年実家に花を届けてくれて、私の両親を喜ばせてくれ、今でも玄関や応接間には道子さんの思い出の作品が飾られ、私の気持ちを落ち着かせてくれる。
 こちらが時間もできゆっくり会いたいと思った時には、彼女は身動き出来ないほど忙しく、幾つかの教室を駆け回る大先生となり、また自らの教室をも持つようになっていて会う事もままならなかった。
 お互い異なった道のりを生きてきたにせよ、これからのんびりと人生を振り返り楽しんで、永く語らえる友でいたかったのに、寂しさは深まるばかりで悲しい。短い一生だったかもしれないが、花一筋充実した人生を全うした彼女は、幸せだったと思うし、多くの人々にたくさんの幸せを置いていってくれたように思う。心安らかにお眠りください。     合掌。 

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