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行橋治雄君について
 村野 貞次
 米国16代大統領はAbraham Lincolnである。そのリンカーンのひ孫を思わせるようにヒョロッとした体型で細面の顔をしているのは同期生、行橋治雄君である。彼は少し急いで平成12年1月16日、54年の旅を終え休息に入った。
 行橋治雄君は立川高校卒業後、中央大学に入り卒業の年に司法試験に合格。研修終了後ただちに弁護士登録をする。本人は任官希望のようであったが、家庭の事情などから弁護士の道を択んでいる。
 さて見習いの弁護士となった彼は、数年の間、私の家から歩いて7,8分ほどの八王子にある法律事務所に勤務していた。私の方は都合、パンのため不動産業を始めていたので、互に業務上のことなどで、分からないことを聞きあっていた。勿論私の方が教わることや助けてもらうことが多かったのであるが。彼の分析は緻密で文章には迫力があった。
 当初、行橋君は「村野はいいなあ。結婚式に行って、お金が入るような仕事だから。我々の仕事は葬式に行って(人の不幸で)お金をもらうようなものだから、つらい。」とよくこぼしていた。いわれてみると確かに不動産の仕事は話をまとめなければ収入にはならない。弁護士業務は異なる。本人言うように「コワもて商売」で、代理人とはいえ紛争の渦中で常に相手方と闘うことを余儀なく強いられる。想像以上にストレスのある仕事のようである。反対当事者側から怨まれる事も多いし、依頼者からさえも苦情がくることがある。弁護士のなかには、突如モノクロの花輪が届けられたり、頼んでもいないのに寿司が10人前も配達された人もいると聞く。あの土佐の国に住む闘犬のような「択ばれた性格」を持ちあわせていなければ、この仕事はとても楽しめない。現実の世界ではプレストンの物語はおとぎ話である。
 行橋君は内向的性格に加えて、無口で、一人っ子であったから、およそ駆け引きや敵対的弁論の必要とされる弁護士が彼の天職であるとは誰の目にも見えなかった。職務上のストレスはかなり強かったはずである。消防士が職務であれば火炎の中にさえ飛び込むように、「男子たるもの」仕事というと神経張り詰めながら無理を重ねて働いてしまうのが常である。
 それでも業務に慣れてきたせいか、あるいは仕事は仕事と割りきったためか、やがて独立して立川のビルの一室に事務所を構え、仕事も順調で、多忙を極め、明るい顔が長らく続いた。夫妻で海外旅行を楽しんだり、仕事で全国へ出張したりして。
 しばらくすると、経済史に残るバブルがやってきた。バブルは、世上いわれているように、桃源社の社長が起こしたのでもなければ、銀行が意図的に起こしたのでもない。彼らはうかつにもバブルの波に乗ってしまっただけの、慎重さを欠いた、軽率ないわば「過失犯」である。
 あれは国際社会のダイナミズムに日本の伝統的硬直的無責任体制が対応できなかった、直接的には官界、政界に住みつき誇りを失った国家のリーダー達の犯罪で、また、それを幇助した多くのマスコミ、拱手傍観して許した万年不作為の多数の国民との共同合作の犯罪であった。昨今、概ね政治家・官僚の顔に哲学はなく行動に品性はない。そしてこれらの責任追及はいつものことながら次元をひとつ下にして進められる田舎芝居に終始する。やせたソクラテスは少なくなった。
いつの世でも組織は防衛を謀り、組織の存在を正当化していく。客観的正統性と社会の各組織の正当性の主張は全く別ものなのでる。
 徳川300年とこれに続く明治100年の公儀および官僚統治のおかげで、国民の遺伝子は選択淘汰されたかの如くであり、加えて敗戦により自信を失ったままの国民は、今やアジアの辺境をさまよう自主性と魂のない羊の群れとなりはてた。日本は希有な国である。神の手はこの国をいずこへ・・・。
 さて、バブルは多くの会社や個人の存在を危うくさせた。当時の行橋君から受けた相談は、今思えば尋常でないものが多かった。世の中そのものが正常ではなかったのである。私は相談を受けても私の知っていた各業界の慣習・慣行の意味、因果について知りうる限りを解説するにとどまったことが多く、案件内容に立ち入って手を出す勇気はあまり持ちあわせていなかった。バブルとその崩壊は多くの企業や個人の寿命を確実に縮めた。やがて10年も続いたバブルも終焉に向かい、人々は少しずつ、目を覚ましつつあるかのように見える。
 平成10年の夏頃から数ヶ月間、行橋君から音信が途絶えていた。何かあったのかなと思いながらも、雑用に追われて特に聞き合わせもしないで時が経過していた。
 翌11年の2月にきたはがきの文面には、「手術を受けて、暫らく大事をとっていたので、年賀状が遅れてすまない」と記されてあった。そして「現在は静養中」と書いてあった。私は返信に「わたしだったら心動転するところだが、君は私と違って理論家であり常に合理的に物事に対処して行く力をもっているのだから、医師の言葉(宣告)に冷静に対処したことは、まことに立派である」旨を記し、間接に励ますにとどめた。
 確かに彼は冷静に病気に対応していった。早い段階で医師に病名と病状(余命)の開示を自ら求め、その結果、業務を整理し事務所を閉鎖し渾身、治癒にのぞんでいった。気功や漢方も通院治療と併せて試みていた。
 暫らくの自宅療養ののち、床から離れて、時折運動をかね、趣味の自然観察に八王子までやってきて、電話をかけてきた。会うと表情に悲壮感はない。病気になる前のように、ひょうひょう且つたんたんとしていた。
 平成11年の春から秋にかけて、あたたかく天気のよい日に、行橋君はしばしば八王子の小宮公園の雑木林の中や、小鳥さえずる多摩川べりを、双眼鏡片手に、数年前から始めたというバードウオッチングに興じていた。いやむしろ、すべてを忘れ没頭したかったのかもしれない。優雅な趣味の世界に生きているのではない。この世に残されたカウントダウンの日々を心安らかに過ごしたいと願いながら、である。
 渡り鳥が、長い旅の果てに、雑木林の日の当たる静かな止まり木の上や、川のせせらぎが聞こえてくる岸辺で、羽を休めてじっと佇んでいるかのように。一切の、この世の煩わしさを避けて。
人が死にのぞんだとき2通りの生き方があるという。社会と最後まで一緒にいたいと願う人と、社会から離れ心静かに残された毎日を過ごしたいと思う人と。ドイツに in dem sielen strbe という諺がある。馬が馬具を背負って死んで行く、の意でこれは前者に生きることを理想とする。
 しかし私は、彼の生まれてからの労苦に耐え坂道を登ってきた景色を直観していたし、加えてストレスの多い不得手な仕事を無理して長らく続けてきたはずと感じていたから、そっと本人の択ぶ道を尊重した。
 リンカーンのひ孫のような顔をした、行橋治雄君は、平成12年1月、54年の旅を終え、休息についた。今、やすらかに、緑に囲まれた狭山丘陵の一角の、大地の中は心のふるさとで、暫らく前に逝った育ての両親と三人で仲良く暮らしている。今年も梅が咲き小鳥がさえずる季節がもうじきやってくる。

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