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個人を偲ぶ
浅見の斉藤勝子さん
 白井 千賀子
 「浅見の斉藤でーす」と電話をかけてきた斉藤さんが昨年の五月二十一日に亡くなった。とても信じられない。私は悲しくて空に向かって『オーイ、戻っておいでよ』と何度もよびかけた。
 その四月に私が所属する高齢社会をよくする女性の会で『介護保険Q&A』という本を岩波書店から出版したので送ったら、「チーコの暖かい心遣いが伝わってくるよ」って電話をくれた。私の文章はほんの数ページだったけど、何年も高齢者問題に取り組んでいることを知っている斉藤さんのねぎらいと励ましのことばだった。
 彼女は、長男の結婚や、次男が歯科医になるのをあきらめて司会者になる道を選んだがそれが彼には向いている、などという話をし、私もひと段落だねと喜んだ。秋には陶芸店を自宅で開いて若い作家を応援したいと言っており、私もそれまで買わずに待っているねと話した。
 斉藤さんとの出会いは入学式の日に背の順に並んだ時だった。わたしは教育熱心な親の期待を背に、中学三年の時沖縄から出てきた。どうにか立川高校に合格したものの、男子学生の多い取り付きようのない雰囲気に飲み込まれていた。そんな中で浅見さんは物おじもせず誰にでも気軽に話しかけていた。
 四月八日の花祭りに生まれたこと、私立女子中学から来たことなどを知った。彼女が一番誇りにしていたことは、母方の祖父が砂川町長として立川飛行場の返還に尽力を尽くした人ということだった。
 私たちが中学三年の時に安保闘争の大きなうねりが日本中を揺るがした。幼いながらに政治というものを考えていた。
 大人になって、わたしは学生運動の関係で公安に逮捕されたことがあり、迷惑を掛けてはいけないとの思いで友人との連絡を遠慮していた。そんな時も斉藤さんは全く気にするでなく、変わらぬ友情を示してくれた。
 彼女は小学校の教員として働いていたが、夫がアメリカへ赴任することになり二人の息子を連れて渡米した。五、六年滞在するというのでナイアガラに一緒に行こうね、と約束したのだが、私の方が病気をしたり親の看護などで実現しないうちに彼女の方も夫の病死で帰国してきた。
 その後産休代替教員などをしながらアジアの青年たちに日本語を教えるボランティアもしていた。私も息子がいるが高校生になってからの言動には理解し難いことが多く、男性とは別の生き物との観を強くしているのだが、思春期の息子を女手一つで育てるのは容易ではなかったようだ。
 昨年の冬、八王子の小宮公園を一緒に散策したが、ここは家族四人でよく来た大切な場所なのよと遠い目をして呟いていた。
 九月に私は、初めてのアメリカに一人旅をした。ナイアガラで、斉藤さん一人で来たよと呼び掛けながら彼女の死について考えた。五十代というのは更年期というのか思秋期といえばよいのか、一見落ち着いているように見える私たちだけどどうにもならない心の闇に翻弄される時があって、被害妄想だぞこれはと思うことすらあるということをなかなか分かってもらえない。
 あまりにも真面目で一生懸命だった斉藤さんは息子たちが巣立って行った時、心のブラックホールの向こうでやさしい夫の顔が手招いたのだろうか。
 時々脳裏に、少女時代の笑顔で『まちがっちゃったよ、チーコ』という顔が浮かぶ。
 一年しか立川高校にいなかった私だが、斉藤さんの誘いで同窓会にもいれてもらった。
今、旧友たちと語らうことで心のバランスを取っている。無心に十五歳の私に帰ることで癒されている。
 でも、斉藤さん、あなたが居なくて寂しいよ。

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