グループには他にも大勢の素晴らしい友人達がいました。一人の会員は、そのお父様がサンパウロに日系では最大の銀行を創設した方で、お父様が作り上げた精神薄弱者のための施設をお父様の亡くなられた後引継ぎ、その経営を続けるために奮闘していました。もともとは精神薄弱の子供達を収容するために作られた施設で「こどもの園」と名付けられていましたが、何年たっても卒園していく先もないままに、子供とは呼べなくなった人たちでいっぱいになった施設の運営には、資金集めをはじめ、大変なご苦労があるようでした。しかし彼女はそんな忙しい中にあっても、ボランティアグループの活動を休むことはまずありませんでしたし、その他にも、毎週一度は美容院に通ってご自慢のヘアースタイルをいつも保ち、週に二度のフラメンコの練習には何があっても郊外に住む先生のお宅まで車を駆って通っていらっしゃる、という毎日でした。
また、やはり私の母と余り違わない年齢の方で、子供の頃に日本から移住してきてすぐカフェ耕地に配置され、教育はそこでの日本語教育だけという体験をお持ちのお友達もいました。それまで一度も音楽教育を受けたことの無かった彼女は、ボランティアグループでの活動の中、音楽的な素地がないことにはがゆい思いを抱いていたようです。あるとき突 |
然一大決心をして、お孫さんが習っているピアノの先生について、ご自分もピアノの勉強を始められたのです。それだけではありません。腰の具合が少し悪くなると今度はプールに通い出し、これも全く初めての水泳の練習を始められたのです。昨年私が伺ったときも、「大丈夫よ、腰から上は全部元気だから」とおっしゃって、そのどちらのお稽古もまだ続けつつ、ボランティアの活動にも参加していました。グループの他の方たちも、必ずしも時間や経済的な余裕があるわけではないけれど、ボランティアも毎日の生活も、周りの目を気にすることなく楽しんでいました。どなたも日本人らしい誠実さや勤勉さといったものを失っていません。その上、完全なブラジル人の気質を持った二世である子供達から影響を受けて、自分は自分、他人は他人と、明るく自分流に暮らす姿勢をご自分のものとしていました。それぞれの出来る範囲で出来ることをしていくというやり方は手作りっぽく、すがすがしい福祉の活動の進め方にも現れていました。毎週2、3度の参加でしたが、私なりにできる範囲でのお手伝いをするうちに、彼らの日本とはちょっと違った生活の楽しみ方や、ブラジル人の福祉の世界を垣間見る機会に恵まれ、二度目のサンパウロ生活がより充実したものになったのは本当に幸いでした。 |