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個人を偲ぶ
高橋 正道

 6、7年前になるでしょうか。紫芳会から送られてきた卒業生名簿を見ていたら、成瀬君の欄に「故人」と記載されていました。
 信じられなくて彼の実家に電話をしたところ、大厄 歳の時、進行の早いがんで死亡していることがわかりました。それから彼の実家にお悔やみを申し上げに行き、より詳しく彼の死の状況を知りました。
 そのとき、母親は会ってくれず、対応してくれたのは弟さんでした。弟さんの話では、 回忌を過ぎても成瀬君の配偶者と母親はいぜんとしてふさぎ込み活力を失ったままの状態とのことでした。その時の母親の気持ちは、理解できます。「友達が元気なのに、なぜうちの子だけが」という気持ちだったと想像されます。
 成瀬君とは 歳くらいから親交が途絶えていましたので、彼に大学や就職してから付き合いのあった立川高校卒業者がいるのではと思い、追悼文を書くのを躊躇していました。このたび依頼がありましたので、私の心の整

理のためにも良い機会として、書かせて戴くことにしました。
 成瀬君とは同じ中学に通い、友達を通して知り合い、また3年生の時には同じクラスになり、仲良く付き合わせてもらいました。また、高校でも2度ほど同じクラスになっております。
 彼の親は居宅から離れて飲食店を営んでおり、日常家には親が不在がちでした。彼の心配りに優れ、率先して体を動かすすばらしい行動力は、その環境からも形成されたと考えられます。同じ学年でありながら、彼は私にとって兄貴的存在であり、中学生時代、彼から「ベンハー」などの映画に誘われたり、友達の家のパーティに誘われたりしました。彼は世間、社会に疎かった私にはリーダー的存在だったのです。
さらに、彼にはたとえ努力したとしてもそれを感じさせない人柄にも魅力がありましたし、友達を大切にする意識も強く存在していました。
 中3の時数学の授業で、教師が発した級友への過激な非難の言葉を、彼は暴言としてその教師に謝罪を要求しました。後にその教師は陳謝しました。その意味でも、私は彼という人間に一目置いていました(私の趣味の一つである囲碁から出た言葉)。
 病気とはまったく縁の無かった彼が急逝し、わたしの心にぽっかり穴が空きました。存命していれば、「おい、そろそろ中学の同窓会をしようよ」などと呼びかけてきたと思います。遊び場であった彼の家で徹夜でトランプ(ナポレオンなど)した時、彼の家の前の大きな林(現在無し)で肝試しした時の彼のにこやかな顔が今でも目に浮かんできます。
 彼に頼りきっている愛妻と二人の成人していない娘を残して他界することは残念だったろうと思いますが、泣き言を言わない彼のこと、これもまた人生と達観していたのではと推測されます。私は、今はただ静かに合掌するしかありません。

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