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個人を偲ぶ
上沼 利洋

 四角い顔に太い眉毛、幾分赤ら顔。菊池晃君の追悼文を依頼されたとき、まず浮かんだのは彼の特徴ある風貌だった。
 その彼が明大で「革マル」だったか「ML」だったかのセクト集団に加わっていたことを知る人は少ないのではないだろうか。高校時代の彼は、かなり右

翼的な思想の持ち主だったから。そんなに簡単に思想の転換がなされるものなのかと、唖然としたものである。そして、これはかなり強烈な記憶として小生の脳裏に残っている。
 当時、ベトナム反戦運動が広がりつつあった、ように記憶している。反戦ということに関しては小生も同調できたので、一時は請われて学生委員をやったことはある。しかし、代々木系の思想にはどうもついて行けず、次第に「日和見的に」なっていった。明大のある駿河台では連日学生と機動隊の衝突があり、高みの見物と洒落込んでいた小生も催涙弾に見舞われたことがある。
 そんな状況の中、彼がどういう経緯で過激な極左集団と行動をともにすることになったのか、かなり興味深いものがあったが、彼は「目覚めただけさ」と言葉少なに語るだけだった。そこには、高校時代に見せていた穏やかな笑顔はなく、鋭い視線には日和っている小生に対する非難も込められていたようだ。そして、学生運動にのめり込んでいく彼に不安と疑念を抱きつつも、次第に疎遠になってしまった。

 混乱の中で卒業式も行われず、以後彼の消息を知る手段もないまま、今日に至っている。だから、彼について多くを語る資格は、小生にもあるとは思えないのだが・・・。
 そもそもの出会いは、2年のときの演劇祭だった。確か「予告された心中」という芝居で、彼が演出を担当していた。小生は、これから心中することを電報で予告した「主人公」。芝居はこの電報を巡っての守秘義務があるかないかを問題にした内容だったと記憶している。
 とはいえ、この主人公は幕開きにチラッと舞台に出てそれで終わり。演技も何もあったものではなく、だからほかの演技者にはあれこれと厳しい注文をつけていた彼との接点は大してなかったはず。しかし、その後友達づきあいを続けたのは何故だったのか、よく覚えていない。
 急激に親しくなったのは、3年になってからか。当時彼に好きな女の子ができて、それを打ち明けられたのがきっかけだったように記憶している。相手は2年後輩の女子。彼がどういう経緯でその女子を知ることになったのかは覚えていない。ただ、そう打ち明けられたことで、「親友のような」気分になったことは確かだと思う。小生にも当時好きになった女子がいて、体育祭の前後にダブルデートをした記憶がある。
 高校3年、受験を控えていながらそんな浮わついた気分でいたせいか、二人とも見事に浪人。同じ予備校に通うことになる。しかし、非常に多感だった彼は、予備校でも可愛い子を見つけることに夢中で、ぼくもそれに付き合わされることになった。それが原因と言うわけではないが、二浪するはめになった。
 落胆と心細さ。互いの傷を舐めあうような付き合いの中で、二人していくつか同じ大学を受け、合格したのは二人とも明治大学だけ。彼は仏文。英文では合格できないからという単純な理由で仏文を選んだという。いかにも彼らしい。
 入学以後、それぞれ専攻で友人ができたこともあり、話をする機会は極端に減った。そして、大学紛争(闘争)。学生運動。
 卒業後、彼がどういう人生を送っていたのか、残念ながら小生は知らない。つまり、彼について書けるのはここまでということだ。
 追悼文の体をなしていないことは重々承知の上で、筆を置くことにしよう。彼の冥福を祈りつつ。

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