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個人を偲ぶ
岩野
 浩二郎

 長谷川秀行くん。去年の12月25日、きみの自宅の告別式に行ったよ。片山布自伎と、尾崎成孝の三人で。見ていただろ、俺たちが来たのを。あの日はクリスマス。洒落だとでも言うつもりかい。
 その足で、ある酒場に寄った。ここは数十年来、年に数回くらいどうしても来たくなるときがある。静かで誰にも干渉されず、ひとりでしみじみと酒が飲める、とっておきの古い酒場だ。ここでいつものように、トリップしてみたくなった。
 2年G組だったね、出会ったのは。担任は秋山先生。きみは柔道部の白帯。ちょっとトッポくて、そして人なつっこいというのか、スッと人のなかに入っていける奴だった。態度にはいつも自信があふれていて、俺たち同輩より考えることも鋭く、深かった。大人だったんだ、きみは。
 気が合って、そう、片山と3人の気が合って、その秋、立高恒例の演コンをやったよな、夏休みから数ヶ月の稽古。『勇者』という一幕物。片山が演出をやって、俺が死刑囚の役で、きみは刑務所の所長、そして夭折した大村建が神父役で、志村美智子が死刑囚の妹役。みんな初めてのシロート。下手くそ。ただやってみたかった。
 「勇者はただ一度のほか死の味を知らず」。あのセリフを覚えているかい。あの演コンから、俺たちは表現するということに完全に魅せられてしまったんだね。
 初演のとき、きみは極端にアガって、セリフを機関銃のように撃ちまくった揚句、語尾をすべて飲み込んで聞き取れない。もうめちゃくちゃに飛ばして、俺はそれで却って落ち着くことができたっけ。なんと、その芝居が優勝して、翌日に再演となった。 
 再演のとききみは実に落ち着いて、すばらしいデキだった。その勢いで、俺たちは演コンが終わるとすぐ同人雑誌の『根無草』っていうのを出したんだ。片山のネーミング。 17歳のくせしてきみはずいぶんませた小説を書いたよ。「おい、『破瓜』って言葉知ってるか?」なんて片山と俺をケムにまいてさ、それが小説のテーマというわけだが、そんな言葉知ってるわけないじゃないか!
 体育のラグビーも面白かったな。藤沢則昭がスクラムハーフで、俺がスタンドオフ、きみがバックスのセンターかなんかやっていて、田濤敏夫がフルバック。スクラムから出たボールを藤沢が俺にパスして、俺はそのボールをきみにパスした。いつも懸命につないで、懸命に走ったよな。
 ある日、体育の授業が終わると、「アレッ、おかしいな」ときみは自分の肩を抑えながら不思議そうにしていた。骨折して鎖骨が首のところにあったから、みんなで大笑いしてしまった。
 高校3年になってきみは東大をめざし、俺は早稲田をめざしたが、当然のように二人とも落ちた。
 片山は芝居や雑誌の活動が祟って肺病を病み、悔しいことに清瀬に隔離されて休学となった。しかし俺たちは浪人と休学の春に、懲りもせずまた同人誌の『微塵』というのを出した。 大学に落ちたから病気になったからって負けちゃいられねえやという心境だったのだ。このときもまたきみは、ませたわけのわからない小説を書いたっけな。そう、『崩れの野の民』とかいったタイトルで、滅びがテーマ。小説って言うより論文になってしまったね、あれは。きみたちの作品はみな描写じゃなくて説明だ、なんて厳しい批評をしてくれた人もいた。
 その浪人なりたての頃だ、立川よさらばというわけだったか、立川駅北口方面の怪しげゾーンにふたりで何度か飲みに行った。詰襟にどこのバッチもつけられない学生服姿で、要するに「もう、俺たちは『男』になるぜ」と気張って行ったんだが、そのチャンスを目前にしながら日和ってしまったのは、あれはきみだったか俺だったか・・・で、とうとう『男』になれなかった。
 一浪して横浜国大に行ったきみを、早稲田に行った俺が芝居に誘って、きみはわざわざ俺の所属する早稲田の演劇サークルに律儀に通ってきた。そして大隈講堂の初舞台を「その他大勢」でいっしょに踏んだのだ。折しも日韓闘争のショボい時代。全都でたった500人なんて隊列もいっしょに組んだ。その後もまた、同期で同人誌仲間の草野俊蔵が一橋大に行って芝居を始めたというので、きみと俺も合流し、わざわざ一橋の小平分校に毎日通ったっけ。演ったのはチェホフの『ワーニャ伯父さん』だ。あれは俺たちにはもったいない、身震いするくらいの素晴らしい戯曲だった。チェホフってほんとにすごい。残念ながら、俺たちの力ではとっても表現しきれるものではなかった。

 そうこうしてきみは日本経済新聞のエリート社員になった。ともかく17歳の頃からひたすら貪欲、ひたすらエネルギッシュだったよ。酒に強いし、仕事にもマージャンにも女の子にも強く、ねちっこく、がむしゃらに押しまくっていた。
 新聞社では流通分野を専門に仕事ぶりもめざましく、今は失脚したダイエーの中内功番として活躍し、いつしかどんどん遠くへ行ってしまった。切れる優秀な記者だったから、俺たちの間では珍しいくらいの出世ぶりだった。
 しかし忙しく数十年が過ぎ、それぞれにいろいろな人生が通り過ぎて行って、ちょっとした諍いからだんだん会うこともなくなり、最近ではおたがいに忘れかけたような矢先だった。
 今年(2001)の6月、きみは文字通りフラッと俺たち立高16期の同期会に現れた。相変わらずちょっとトッポく、黒シャツにピンクの派手なネクタイ姿だった。系列の出版社に移ったよ、そう言ってニヤリとニヒルっぽく笑った懐かしい顔に、なぜか俺は不安を覚えた。会った瞬間、ちょっとしたきみの変わりよう・・・肉体的な病みの印象に気づいた。その日の登場のしかたも、かなり唐突だったからだ。
 それから半年経って11月の末頃、俺はきみに電話をする気になった。ちかぢか飲もうぜと誘うと、「いいよ」と電話の向こうの声が明るかった。それから 週間後に再度電話をしたら、「2週間くらい待ってくれないか」と声が疲れきっていた。
 まあそんなところか・・・と俺は一瞬がっかりして、2週間後の電話を忘れてしまった。いや、覚えていて、しなかったのかもしれない。そして、それっきりとなった。その翌週末の12月23日に、きみは突然逝ってしまったのだ。
 肝硬変による動脈瘤破裂。告別式に、奥さんからそう聞いた。あの日の疲れた電話の声は、その入院手術直前のことだったのだ。そして、今年は岩野には会えそうにないから来年早々に連絡したいと話していたという。それを聞いて、俺は自分を呪った。なぜ電話をかけなかったのか。
 長谷川秀行くん。長かった没交渉の果てにきみとひょっこり会え、そして久しぶりに電話で声を確かめ合って、それも束の間、不意に居なくなってしまったきみを、俺はどう受け止めたらいいのだろう。
 なぜきみは突然のように、同期会に来る気になったのだろう。同期会の挨拶で、きみはこう語っていたね。「片山と岩野が昔のように、今度は『泰山木』という同人雑誌を始めたんじゃないかと思った」と。そのシニカルな口調は変っていなかった。 
 きみの気まぐれだったにせよ、そんなふうに再会してすぐに逝ってしまったら、思い出すことがいっぱい出てくる。きみを思い出すことは、いっしょになんだかんだとむしゃぶりついていった俺たちのあの頃を思い出すことだから、きみが早々と逝ってしまうと俺たちにまつわる記憶もあえなく逝ってしまうことになって、それはちょっと辛いことにもなるんだぜ。
 告別式では、眠っているきみの顔を、片山とじっくり見せてもらったよ。穏やかだった。半年前の病んだ表情はもうそこにはなかったし、俺たちのよく知っている17歳の表情がほのかに浮かんでいるようだった。
 ・・・こうして思い出すまま酒を飲んでいるうちに、ちょっとこらえ切れなくなってきた。そして、ずっと若い頃、20代前半の頃に、いや30を過ぎてさえも、酒場で会って酔っ払ってはいつも皆でいっしょに歌っていた、あの歌が口を衝いてきた。手拍子を打ちながら、大声をはりあげているきみの顔が見えてくるよ。あの歌を、酒を汲みあって、もう一度いっしょに歌いたかった。きみは、あの歌のように、カッコよく逝ったのだろうか。たった56年間という歳月だったが、燃え尽きることができたのだろうか。

織田信長の詠いけり
人間わずか五十年
夢幻のごとくなり
かどうだか知っちゃあいないけど
やりてえことをやりてえな
てんでカッコよく死にてえな
人間わずか五十年
てんでカッコよく死にてえな

異国の聖 のたまいぬ 
見よや野の百合空の鳥
明日は明日の風が吹く
かどうだか知っちゃあいないけど
生きてる気分になりてえな
てんでいきがって生きてえな
明日は明日の風が吹く
てんでいきがって生きてえな
      (福田善之作『真田風雲録』劇中歌)

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