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個人を偲ぶ

★★★谷藤日出夫
 おーい徳井―――、お前ほんとに死んだのか? 
電話をすれば「よ! 元気でいた?」と返事が返ってくる気がするが。
 振り返ってみると、北大入学で初めて北海道へ行くとき、お前と俺のお袋さんと一緒に4人で急行八甲田で上野―青森―連絡船―函館と長い道中、つくづく遠くへ来たもんだと溜息をついたが、帰りの連絡船でお袋どうしが泣いていたそうな。その後の我々の身勝手さを予感したのかもしれない。
 お前は、まじめすぎるくらいでもあった。大学時代、俺は低空飛行であったが、お前は宿題はしっかりやっていたし、フルブライトでアメリカまで行った。卒業して別れ、アメリカから途中で帰ってなにやら建築屋を始め、その成果のドームの売り出しについて、俺も心当たりにカタログを送ったり話をしてはみたが、結局ほとんど売れなかったと聞いて、飯はどうするんだと心配した。
 忍路(おしょろ)にこの実験的ドームを立て、奥さんと一緒になった頃から仙人的生活になったようだ。俺がディスクの会社を始めたときの管理システムを頼んだとき、初めてドームに泊まりながら詳細打ち合わせをした。
 奥さんがしっかりしていそうで、徳井と一緒に夢を語るのを聞いて、いい人と一緒になれて良かったなと思った。それと風呂に入るとき、凍えて死にそうになりながら裸になったのと、海に面した窓越しには吹雪が下から舞い上がっていたこと。
 システムの立上げのため当時の足利に3ヶ月いたが、生来の人懐っこさからか、小難しい工場長始め皆から徳井さんと親しまれ、無事システムが順調に稼動したときは、ホッとしたのと、バグがほとんど無かったのに改めて感心した。
 その後子どもが出来てから一層自然派を目指してマイペースで、奥さんや子供たちのことを考えるよう生活を何とかしろと言っても、全く頑固だった。でもそれで結構生活できたんだから良しとしたいが。
 一昨年の余市での未練の残る別れからあまりにも早い人生の終りだった。遺骨が、ドームの前の海と、元の家族、東京に分骨されているとの事、北海道に行く折には、忍路のドームで冥福を祈りたいと思う。

★★★谷藤房枝

 立高時代の徳井さんを私は知りません。彼との付き合いは、私たちの結婚式以来30年ほどになりますが、その間、音信不通の時期もあり、忘れた頃に短い便りがあったり、また、こちらから突然電話したりというお付き合いでした。
 でもその交わりは、なぜか常に新鮮で忘れがたいものでした。 彼は、その風貌と生活の仕方からは想像できない、ごくごく普通の、まじめで、礼儀正しく、まめで、心やさしい、性格的に慎重な人でした。


徳井一郎君遺影

 私たちが足利市に住んでいた頃(84年から94年)、夫の会社へ3ヶ月ほど手伝いに来てくれた事がありました。その間、我が家へもよく食事に来たり、泊まってくれたりしました。3人の子供たちも、彼のユニークな生活ぶり(衣食住)や、体験談に、目を輝かせて聞き入り、たちまち徳井さんの大ファンになってしまいました。エピソードは色々ありますが、一つ二つ紹介してみましょう。
 1 焼き魚を出したとき、彼はお皿に何も残さず頭から、骨、尻尾まで全部平らげてしまったこと。これには3人とも目を丸くして驚いていました。
 2 娘と散歩に行ったとき、道端のタンポポをぱくりと食べたこと。家に帰り「おじさん、草をむしゃむしゃ食べちゃったよ」と興奮して私に話しました。
 その後、宅配便で、根がついたスズランを送ってくれたこともありました。その良い香りと徳井さんの優しさがうれしくて感激したものです。土に植えてやると翌年も花を咲かせてくれました。ほかに、忍路の海で取った昆布を乾燥させて送ってくれたり、自分で作ったハスカップのお酒を頂いた事もありました。まめで器用で気配りの出来る人でした。
 その後、長男は学生時代に、友達とドームに泊まりに行きましたし、今北大に行っている娘も大学の食堂でお昼をご馳走になったり、ゼミの部屋にスズランを届けてくれたりということがあったそうです(その時は、友達にちょっと冷やかされたそうです)。さまざまな思い出は尽きません。

ー会えてとてもうれしかったよ 忍路での一日ー
2001年8月私たちは北海道の娘のところへ出かけた。三日目だったか、小樽方面へ観光へ行くので、夫がその日の朝突然電話したが留守だった。翌日もう一度だけ電話してみようということになり、かけたらすぐ通じた。
 「今札幌にいるんだけど、今日会えるか?」「おお、いいよ、小樽まで迎えに行く」という簡単な会話だけで、愛車のオールドカーで迎えに来てくれた。もう15年も会っていなかったのに、このときの再会は実に自然であった。彼の姿を認めたときは、この人見知りをする私が「徳井さ?ん。」と大声で呼びながら走りよっていた。今思い出しても不思議だ。この瞬間から、私たち3人は少年時代にタイムスリップしたように童心に返り、夢のような楽しい1日が始まった。まず、忍路のドームに案内してもらった。ドームは忍路の崖の上、部屋に居ながらにして270度位のオーシャンビュー。大自然を借景にしたすばらしい眺め。一日眺めていても飽きないだろう居心地のよさに、しばし時のたつのも忘れた。「今は夏だからね、冬はすごいよ」の声が横からした。おいしいコーヒーをご馳走になった。その後、忍路湾にある北大の臨海試験所のボートを借りてくれた。私たちは彼にビーチサンダルを借り、ズボンの裾をめくって、男性二人はちょっと薄くなった頭にタオルを巻き、日よけにしてボートを漕ぎ出した。快晴の真っ青な空、透き通って海底の昆布や岩ガキが手にとるように見える海。近くに目指す三角錐のカブト岩、遠くに積丹半島を望み、途中海中の昆布をちぎり食べたり、写真をとりながら、30分ほどでカブト岩の付根に到着。浅瀬にボートを繋ぎジャブジャブ歩く。カブト岩は意外と手ごわくスリルがあった。上を見ると青空に槍の穂先のよう、下を見ると周囲ぐるり海、足がすくむ。私は途中で断念したが、二人はやっと頂上までたどり着いた。へっぴり腰で「バンザイ」をしている二人を私は笑いながら写真に収めた。何とか下までおりてきたときは、正直ホッとした。陸へ戻り、今度は余市の市場の食堂へ案内された。うに丼、いくら丼、ほっけの干物、それにちょっぴり生ビールで腹ごしらえし、話に花が咲いた。近くのニッカウヰスキーの工場へちょっと立ち寄り、私たちは札幌まで電車で帰るので、余市の駅まで送ってくれた。発車まで30分以上あったが、なぜかお互い別れ難く、待合室で発車間際まで話し込んだ。列車が走り出しても、いつまでもいつまでも手を振って見送ってくれた。まさかあれが永遠の別れになろうとは……。あの楽しかった一日のことは忘れない。あの日に夫がカブト岩でとった写真が遺影になっているとか、本当にいい笑顔していたもんね。後日、徳井さんから短い便りとコンブが届いた。「会えてとてもうれしかったよ。カブト岩は恐かったね。あの生えてるコンブを思い出して食べてね。 とくい」

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