index
個人を偲ぶ

 皆見 剛
 市川トウル君が急逝したのは一九六六年の五月四日の朝でした。翌五日に催された告別式で、彼の経歴と病状について次のように報告されました。
 「市川トウル君は昭和二十年七月三十一日、敗戦直前の空襲さなかに生まれ、新しい民主日本のあゆみとともに成長しました。地元の前進座保育園を巣立ち、武蔵野第三小学校、第三中学校に学び、都立立川高校に進み、天文気象部で台風のときは観測のため学校に宿泊するなど意欲をもやしていました。昨年春、あこがれの早稲田大学に入学し、商業英語研究会に入り、本年も早稲田祭委員の仕事に加わって、この秋をめざし資料の整理に前夜もおそくまで熱中していました。父米彦さん、母美代さん、兄ノゾムさん、妹ユリコさんとともに五人家族を構成する武蔵野市の元気な青年でありました。このたび家族も、おそらく本人も思いも寄らない急激なぜんそくの発作によって五月四日午前九時五分、自宅で母と兄に見守られながら永眠しました。ときに年二十歳。やがてくるあたらしい世の中へ伸びる可能性をからだいっぱいにいだきながら、かれの生涯は閉じられたのです」(市川トウル君追悼文集より)。
 市川とボクの出会いは何時だったのだろうか?三年間ずっと同じクラスだったような気がするし、一年間きりだったような気もする。特に深いつきあいが彼との間にあったわけではないが、何故かいつも身近な存在だったように思う。そんな彼について何よりも印象に残っているのは、あの人なつこい笑顔である。周囲を和ませる独特な雰囲気をもっていて、今の流行り言葉でいえば「癒し系」の元祖とでもいうのだろうか。
 もう一つ忘れられないのは、高二の夏休みに神城山荘をベースに白馬岳へ登った時のことだ。彼を含め、総勢五十名は超えていただろうか。山頂の白馬山荘に一泊した翌日は折からの台風に襲われ、下山もできずに山荘のなかでいくつかのグループに分かれてダベッたり、トランプゲームに興じて過ごした。台風一過の夜空には満天の星が輝き、光の洪水のなかに黒い影となって浮かぶ南アルプスの峰々、剣、立山の眺望は圧巻であった。そんな風景の中で仲間に囲まれた彼が、星空を指しながら何かボソボソと語りかけている様子を憶えている。ボクは離れた所にいて、彼の声は聞こえてこなかったが、きっと星々の世界を仲間に紹介していたにちがいない。この夜の彼のことを「星の王子さま」のイメージとダブってふっと想いだすことがある。その後、この時の仲間をコアに「お山の会」が結成された。市川は発起人のひとりであり、いつも会の中心にいた。「お山の会」の連絡ノートは彼の踊るような字で溢れていた。何冊もあったノートはどこへ行ってしまったのだろうか。あのユーモアに富んだ文章にもう一度触れてみたいものだと思う。
 「お山の会」は、立高卒業後も吉祥寺の喫茶店で会合をもったり、ときおり山歩きやキャンプを楽しんでいたようだ。ボクは休眠会員で、参加することはほとんどなかった。だから、市川の笑顔に本当に久し振りに出会ったのは早稲田大学のキャンパスでのことだった。お互いに友達が一緒で、ユックリ話すことも無く、「今度飲もうよ」といって別れたきりになってしまった。彼が亡くなる前年の秋のことだ。彼が亡くなった時に、「お山の会」の仲間が中心になって追悼文集「足跡」(一九六六年六月発行)をつくった。
 「市川君が逝ってしまった。あの背の高いヌーボーとした風の彼が……。メガネの奥にやさしさをたたえていた瞳がたまらなくなつかしい。二十年の歳月は人が一生とするにはあまりに短かった。惜しい、残念でたまらない。友を悼む心が筆舌につくせるものだとは思わない。しかし、時の流れと共に、故人に対する記憶がうすれていくことも否定できまい。そんな時でもこの文集は、現在の我々の心境をそのまま語り残してくれるだろう。故人の墓前に花を捧げるように、我々は市川君にこの文集を捧げたい」とボクは序文に記した。
 あれからすでに三十五年を超える歳月が流れている。彼に対する記憶も断片的であいまいなものとなってしまっているのは、いたしかたないことである。ここで追悼文集「足跡」に掲載された追悼文のいくつかを紹介したい。二十年という彼の短い人生の中で出会い、そして貴重な時間を共有した仲間たちの当時の想いを何よりも雄弁に伝えてくれるだろう。また、三十五年前に時間をさかのぼることで、市川像をリアルに浮かび上がらせてくれるにちがいない。本人の了承を得ないまま、勝手に引用、抜粋することをどうかお許しいただきたい。
◇大親友の小串治正は、追悼文集「足跡」のなかでこう記している。「五月四日、この日は僕の生涯を通して、忘れる事のできない日となった。電報をもらった時の半信半疑の気持ちもついに信じなければならなくなった時の悔しさはいいようがない。今、オタクとの思い出をたどってみると、高校三年間、浪人一年間と大学一年間の五年間のつきあいであったけれど、とてもこんな短いつきあいだったとは思えない。オタクとオレとの性格は、全然異なっていたようだけど何となく気が合った。オレ達のトレードマーク(両足跡のイラスト)も遂に片足となり、オレ達を結ぶこの怪しげなマークもこれからは見られないし、オレも書くことはないだろう」。

◇天文気象部で三年間一緒だった田中直嗣はいくつか短文を寄せており、いずれも市川の高校時代を彷彿させるものである。その中の一つ「胸のポケット」を紹介したい。「市川氏の胸のポケットはいつも満員である。鉛筆をはじめ赤、黒、緑の万年筆、それに定規も入っていた。筆箱がすっかり引っ越してしまったようだ。すこぶる合理的で、特に天気図を書くときにはその威力を発揮する。左右の手で。鉛筆や万年筆を上手に使い分け、次々に新手を繰り出すのである。合理的ばかりでなく、スタイリストとしての市川氏がこの背後にあったのかもしれない」。
◇お山の会のメンバーである林織代は「一緒に白馬に登ってから、まる四年になろうとしているのに突然私たちは貴方を失いました。お山の会の親分として、あのちょっとすましこんだ顔にのほほんとした表情をおりまぜて、ドシッと喫茶店のシートに腰をかけていてくれました。会のノートには踊りだすような感じの大きなのんびりした字がゴトンゴトンといっぱいでした。読むと大らかな調子で批判やら、意見やら、おもわず笑い出してしまう表現が連続して飛び出してくるのだった。大きな足あとと緑と黒インキの持主。それに音楽好き。吉祥寺のレコード屋をのぞくと時々レコードを物色しているのに行きあった。貴方がなくなったと聞いたとき、ちっともピンとこなかった。いまでも会に出ればシートの一つに腰をかけているような気がする」と記している。
◇次は、市川と共にお山の会を支えた永野勝の追悼文である。「高校時代、クラブ活動に僕たちとの山歩きに、そして勿論、文化祭とか体育祭には必ず顔を出していた。それが他人の為にやるとか、人の世話をするとかいうのでなくて、いつもあまり目立たずに自分自身の充実感の為にやっているようだった。他人のことは干渉せず、そのくせ自分自身では最高に動き回って、絶対他人が真似できない独特のものを持っていたように思う。高校三年の時、あの受験期の波の中でも『今年の二年は全然やる気がねえなあ』といいながら、夜遅くまで体育祭のキャンバスづくりをいっしょにやったことを思い出す」。◇「いつも校舎のてっぺんの円いドームの中にいて、空をみつめていた人のような気がします。私が『空ばかりみつめていておもしろいの。どうして、お天気部にはいったの』とたずねるたびに、黒いほほをちょっと紅潮させて、空のおもしろさ、星の美しさ、雲の楽しさを話してくれた人のような気がします。いや、そういう人のようではなく、そういう人だったのです」(池田聡子)。
◇「彼は、天文気象部に属していて、コツさん情報に詳しかった。三角形を書いてメガネや口や鼻を書き込み、ほほにあたる部分を赤く塗っては『コツさんだ。』と言っていたのを思い出す。彼と話をしていると、何となくほのぼのとしてしまう。彼はそういう人間だった」(小野嘉之)。
 ここに紹介した以外にも多くの仲間から寄稿いただき追悼文集「足跡」ができた。奥住素子、小池哲夫、近藤瑶子、笹原真文、長井正、長岡常雄、成田京子、西川礼子、西原和彦、広瀬荘太郎、望月栄子、柳瀬文子、渡辺房江の諸氏である。また、天野、上原、大野、岡田、菅野、丹治、中島、浜村、福島、堀田、増田、山下、名坂、高橋の諸氏からも制作費のカンパをいただいた。編集後記で細野光司は「多くの人から原稿を受けとり、如何に学友の心に彼の性質が強く印象づけられていたかと、そのすばらしい彼の人間性を羨ましく思ったりもした。市川君と共にこの文集も忘れえないものの一つとなることを願っています」と結んでいる。この追悼文集づくりに協力いただいた仲間の中にはすでに鬼籍に入った人もいる。ボクにとって立高卒業以来、一度も顔を合わせたことがないばかりか、その音信さえ聞かない人も多い。ただ、三十五年も前に愛すべき友を失い、ともに悲しみ、その想いを「足跡」に残したのは確かなことだ。
 故人は三十三回忌が過ぎると完全に成仏すると仏教の世界では考えられているそうだ。春の七草のひとつに紫色の可憐な花を咲かせるホトケノザと呼ばれる植物がある。植物界にホトケノザがあるくらいだから星の世界に「仏の座」があっても不思議ではない。あれほど星の世界に憧れていたトウル君は、「仏の座」の新星となって夜空に輝いているにちがいないと、ボクは勝手に考えている。トウル君、神城山荘の最後の夜、キャンプファイヤーを囲み、仲間とうたったこの歌を憶えているだろうか。
  明るい星の夜は
  いつもいつも
  思い出すのはお前のこと
  おやすみ安らかに
  辿れ夢路……            合掌
◇追記
 昨年十二月七日の夜、浅井(旧姓成田)京子さんと吉祥寺駅ホームでばったり出会った。この日、大野春樹氏が率いるラテンバンド「パライソ」の恒例ディナー演奏会が催され、浅井さんは二次会に参加して帰宅する途中で、私は結婚式に呼ばれた帰りであった。「お山の会」の常連であった浅井さんに例の連絡ノートの行方をたずねてみたが所在は不明であった。電車にゆられながら二人で指折り数えてみたらどうも今年が三十七回忌にあたるらしい。「来年は市川の追悼山歩きでもしようか」などと話し合い、私は先に国分寺駅で降りた。

個人を偲ぶ
index