寄稿4


我がビジネス戦記
 小枝暉久


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 国内外含めいろいろな人と出会う人生の中で、私にとって立高生活は重要な通過点で、思い出せばいろいろなことが浮かんできましょうが、正直言ってそのような感傷に浸る機会も少なく、ただただビジネスの世界を突っ走ってきました。そんな私に泰山木編集部から突然のお電話で、「日米のビジネス界での思い出を」との寄稿の要請を承り、いずれかの機会に皆様との接点になればと、いささか履歴書風の形で恐縮ですが、書いてみました。
●ギター抱えて、会社人人生スタート
 立高では運良く(?) 三年間男女クラス、演コンで駆け落ちする役を演じたり、合唱コンクールで指揮棒を振ったり、クラブ活動もハーモニカクラブで、進路も芸術関係に憧れた時期もあったが、立高伝統の一浪、憧れの (?)代々木での浪人生活を経て早稲田の理工 (化学専攻) へ。
 ボーリングにのめり込みながらの神田川的同棲生活を送って卒業を迎え、大学院へ残ることも考えたが、学問への興味も薄く、早く実社会で稼ごうと決めた。学長推薦で三菱商事に応募し、無事パス。
 入社早々、当時はやりの平凡パンチの歌集とギターを抱え、弁当持参の 「屋上歌の会」を開催した。上司
からは、あいつはアタッシュケースの代わりにギターケースを抱えて出社の「べ平連」だと言われたが、机を隣り合わせて仕事をする以上、チームワークと相互理解と仲間意識が重要との思いでその会を継続し、社内ハワイアンクラブにも入ったりした。
 入社の翌年、海外人材育成機関IIST(当時の通産省が中心になって設立した学校で、各官庁・企業から毎年100名送り込まれ、全寮制で国際人を特訓するというもの) に入学。富士の裾野で仕事を忘れ、朝から晩までいろいろな業種の仲間と討議し、夜は富士宮の町まで下りて酒を飲み交わし、外国の先生方とも親しく懇談した。最後の一カ月は米国で、自ら作った計画に沿った海外研修を受けた。
 研修終了後、憧れの輸出業務を担当したが、実務経験皆無に加え、理科系だったためFOB(本船渡し)もCIF(運賃保険料込み価格) もわからず、上司から赤鉛筆でテレックス原稿を直される毎日だった。開き直って、受渡しの基礎勉強が新人教育には必要と直訴した結果、「受渡し業務課」が設立され、常駐の乙仲(通関受渡し業者)と一緒にDOCumentation(船積書類作成)業務に明け暮れ、必死にL/C (信用状)の読解力を高め、為替知識も学んだ。
 基礎をしっかり学んだ後、塩ビ樹脂の輸出を担当。第一次オイルショック時には、サウジアラビア政府から原油を増量してもらう代わりにパイプ用の塩ビ樹脂の輸出要請が通産省経由で入り、出張商談の結果、大量成約を成し遂げることができた。
●初の海外勤務
1976年、飛躍的に伸ばした中近東向け輸出の成果が認められ、初の化学品専任中近東駐在としてイランの首都テヘランに転勤。当時商社では三菱はサウジアラビア、物産はイラン、住友はイラクが強く、イランへ行っても前任者なし、引継ぎなしで、生活も仕事もゼロからのスタートだった。ペルシャ語の語学研修生に夕食を奢る代わり、生活必要単語100くらいと数の数え方だけを教えてもらって短期間でむりやり習得し、何とか家族が来る前にタクシーに乗って動いたり買い物をして食料を確保したりができるくらいには
なった。
 仕事も、どうせゼロからなら大物狙いと、大型取引の肥料を狙い、夜討ち朝駆けの肥料公団訪問で、苦労の末4万トン初成約。当時化学品部門は肥料部全盛時代だったにもかかわらず、イランだけは取引なしの屈辱を味わい続けた市場で、合成樹脂出身の素人が肥料部の悲願を達成したと、本社も大喜びしてくれた。その後も続々と落札を記録したが、予期せぬ宗教革命で、家族を日航の特別機で帰国させた(この時生後三カ月の次女がいて、大変な帰国だった)。男は最後まで全員残ったものの、いよいよ危ないと判断し英国に緊急避難。1979年春、化学品等は撤退を決定し、正式に帰任となったが、堅固な体制が一気に崩れた歴史的場面に遭遇したのである。
●第二次オイルショックを経て、花のニューヨーク勤務
 再び塩ビ樹脂の輸出を担当したのだが、第二次オイルショック到来で価格急上昇と供給力不足で取引も激減。そこで米国品を中近東・アジア各地へ輸出せんと、いわゆる「三国間取引」に社の先駆者として取り組み、取引を大きく拡大することができた。しかし、苦労して定着させた米国からの三国間取引も、米国景気が良くなれば国内優先となるから輸出玉は絞られて窮地に追い込まれる。そこで米国が景気の良い時に儲かる仕事は何かと自問自答した結果、米国内取引への参入を提言した。紆余曲折を経て塩ビ樹脂を使う工場を買収し、そこに納入する形がベストとの結論に至る。早々に買収候補先探しを開始し、1982年、年間生産量二万トンのパイプ工場DIAMOND PLASTIC社を設立して原料の国内取引を開始した。この会社は20年経た今日、15倍の30万トンを生産するようになり、結果的には米国三菱商事化学品部門最大の国内取引商権になっている。
 1983年秋、塩ビ樹脂の米国国内市場における展開責任者としてニューヨークに転勤。80年代後半は日系自動車の北米生産が本格化し、合成樹脂関連部品メーカーの進出や事業投資案件の相談のラッシュで、仕事の合間にアテンドと接客の毎日だった。あまりの来客の多さとギッシリ詰まった予定で、円形脱毛症を二度も経験した。
 こうした中で、200名の現地社貝が楽しみにする恒例のクリスマス・パーティは飲む歌う踊るの大騒ぎだが、100名あまりの邦人駐在員はいつも乗り遅れ気味だった。翌年のパーティ間近に、社長の命を受けた私はにわか練習(20年近く楽器には触れていなかった)を開始、度胸を据えて出演したら大喝采を浴びたというようなエピソードもあった。
 ニューヨーク勤務も6年経過した1989年秋、米国進出が加速していた日系自動車メーカー向け部品の原料供給体制固めを期した理研ビニル工業(現リケンテクノス)から北米拠点確保の相談・要請があり、いろいろ探した結果、NYSE(ニューヨーク証券取引所)上場の大手石化企業オキシデンタル社保有の塩ビコンパウンド工場を買収、RITEC CORPRATIONを二社会弁で設立した。この仕事を最後に帰国予定だったが、買収契約の前日、初代社長を予定していた米人が突然辞退、やむなく帰国を延長して社長として乗り込むことになった。十年間赤字続き、その上過去四年間に四回の身売りという目にあって、社員モラルも低下していた会社をそれから二年で何とか黒字化し、1992年4月、八年半ぶりに帰国した。
●二度目の米国勤務を終えてリケンテクノクスへ
 これでもう米国との縁も切れ、海外勤務はないと踏んで、家も建て直し、日本での仕事に専念していた矢先、二代目社長が巨額の不良債権を発生させてしまい、彼は辞職願を本社に提出、三代目社長として1993年秋、再度私は米国に赴任する羽目になる。ニュージャージー州のプリンストン大学近くに居を構え、不良債権処理を弁護士と開始した。老舗の相手が保有のブランド・商権といった無形資産に加え、ヤンキースのバックネット裏4席の権利も譲り受けてなんとか決着させた。(余談だが、このバックネット裏の席は、松井のヤンキース入りで、米国三菱商事、日本大使館、領事館、取引銀行、お客様に今や大好評、仕事にも大いに役立つ資産となった。転んでもただでは起きない精神が生きた形だった)。
 債務超過状態の事業を引き継ぐ際、株主から、飛躍のための新規投資が可能な事業にするか、売却撤退するかの二者択一の選択を二年以内に行うことを条件にされた。旧知の現地社貝も窮状を認識し、全社員が年俸10パーセントのカットを受諾し、危機意識の共有化が図られた。再生に向かうベクトルも会い、1999年度には期間損益は税前500万ドルを達成し、累損一掃・借入金一掃・配当開始も実現したのである。2000年3月、六年半があっと言う間に過ぎ、日本に帰国するが、一連の米国事業再建を横で見ていた理研からの要請を受けて、帰国後三菱商事を早期退職し、現在のリケンテクノクスに転職した。
 そして早速、必要に迫られている抜本的な事業構造改革に取り組んだが、長くいる者は誰でも今の延長線上のやり方で経験の差を武器に勝負したい意識が抜けない。いくら課題を指摘しても、「問題はない、見えない、見えても変えたくない」となってしまう。ジックリ腰を据え、相手がその気になるまで、メール・会議・対話に連夜の飲み会を加えて意識改革に努めた。こうして転職後四年半の今、各種改革の成果が見えてきて、、業界No1、社内No1事業部の座を取り戻すことができ、業績評価や昇格面でも部下の努力に報える結果が出た。残る重要な仕事は、プロパー社員の登用であるが、早期世代交替を目指し、自分のさまざまな経験や知見を活かし、人材育成に繋げることに取り組んでいる現在である。
●グローバルビジネスを成功させるには
 仕事をする上で私が常に心がけてきたことがある。まず第一は人とのかかわり方である。人を活かし人を育てることで、自らも成長し、良い仕事ができる。これまで良い仕事ができたのも部下や周りの頑張りのおかげである。
 第二は相互信頼が生まれるような仕事への取組姿勢を見せることだ。公私を区切り、私欲を捨て、公平であること。周囲の人間は人の背中を見て動くのだ。
 第三は常に新しい発想で新しい状況に挑む気概と実行力を持つこと。それが天の助けをも生み、必ず道は開けてくるものだ。
 第四は、女性・家族(特に妻)に対する意識改革が必要ということ。米国といえば日常生活での女性優先にとどまらず、ビジネスの世界でも女性の存在感は高く、仕事上の重要な接待も自宅でとか、とにかく夫婦同伴が基本である。日本では表面に出さぬ内助の功だが、彼の地ではビジネスの表舞台の社交面で堂々と存在している。我々戦後世代から日本も変わりつつあるが、まだまだの感は拭えないと思うので。