寄稿5

新島への
古文書目録作りの旅
山田(奥住)素子


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●旅の始まり
 ここ数年、伊豆諸島の新島に年に数回通っています。竹芝からジェットホイールに乗って三時間足らずで新島港に着きますが、迎えの車に乗って目指すところは、浜から見える白い三角屋根が目印の新島村博物館です。ひょんなことから、博物館所蔵の近世文書の目録件りをお手伝いすることになり、古文書を勉強している仲間と通うようになって四年目を迎えます。
 新島は江戸時代、三宅島や八丈島と同様、流人の島としても知られ、流人関係をふくめ数千点に及ぶ文書が保存されてきました。他の島では火災などによりなくなっていますが、新島にはかなり多くの文書が残されてきました。
 昭和32年に東京都により「伊豆諸島文化財総会調査」が行われ、新島の古文書は都の重要文化財に指定されましたが、村役場所蔵の文書はその中の1000点ほどを目録に記載されただけで、他の数千点に及ぶ文書はそのまま保管され、虫食いや水濡れで痛みの激しい文書は修復されてきました。村では数年前から、村史発行とともに資料集を刊行していますが、古文書の目録は作られてきておらず、せっかく文書を修復しても利用することはなかなか難しく、どのような文書が何点あるかわからない状況から目録件りの必要性が言われてきました。
 たまたま、私の職場が新島の文書を修復していてつながりがあり、私が仲間と古文書の勉強会をしてきていたことから話がまわってきました。面目そうと思ったら後先考えずに走り出してしまう私のこと、誘われるまま博物館に見学に行ったのは三年前の五月でした。そこでお会いしたのは、それまでの十年、古文書の整理をしてきた梅田実太郎さんと前田万作さんでした。
 「ここは島だからいつか助け船が来ると思っていたが、やっと来てくれる、嬉しい」と前田さんは喜んでくれました。帰り際に、「今度いつきてくれるの」と聞かれ、「できるだけ早く来ましょう」と答えていました。攻にまみれながらこつこつと古文書の整理をしてきたお二人のことを思うと、なんとかお元気なうちに目録を完成したいと思い始めていました。
 さて、お手伝いしましょうと言ったものの、これからどうやって作業をしていったらいいのか、古文書の仲間に話すとみんな好奇心旺盛な人たちですぐに話にのってくれました。でもその時は、みんな数回行ったら終わると簡単に考えていたようです。いろいろ先輩諸氏から貴重な意見をいただいて計画を練り、とにかく、みんなで出かけてみようと、その年の九月に初めてみんなで新島の地を踏みました。
 幸運なことにその年の春から、高速のジェットホイールの連航が始まり、朝八時に竹芝を出ると、二時間半くらいで新島に着くことができるようになっていました。今思うと前夜から出航する大型船だったらみんな二の足を踏んだことでしょう。
 いざ、目録作りを実際に始めてみると問題点も多く、検討を重ね、小平市中央図書館の方式をお手本にして、点検作業から始めることにしました。既に分類してある文書を一点ずつあたり、内容と封筒記載事項を確認し、目録に必要な項目を書き加えていきました。この時のことは博物館発行の「ねこのおどりば」に仲良し四人組が古文書整理に来てくれた、と写真入りで紹介され恥ずかしくなりましたが、何をしているのだろうという家人を説得するには大いに効果があったようです。
 その後、三カ月に一度の割合で新島に出かけることになるのですが、黙って協力してくれる家族にみんな感謝しています。とりあえず、たたき台となる仮の、また仮の目録を作ろうということになり、帰りの船の中で、会の名前も「新島倶楽部」と決まり、みんな自然の豊かな落ち着いた村が気に入って、何回も足を運ぶことになる初めの一歩となったのです。

●島通いあれこれ
 車は品川ナンバー、二時間半で着くことができるといっても島通いは波任せ、風任せ、思いどおりに事は進まない。でも私は船運がいい、つきについているといわれるくらい、行きの船で足止めされたことはありません。たまに、条件付きといわれることがあっても、三つの港のどこかには着くことができます。条件付きというのは、着岸できない場合はそのまま逆戻りすることがあること。最近、三宅島の役場の人が着岸できず竹芝に戻って翌日出直したので30時間も船に揺られていたという記事が新聞に載っていました。
 しかし、帰りは何回か船が欠航するといわれ予定変更を余儀なくされたことがあります。台風はずっと南の海上だからと油断は禁物、九月のこと、朝、露天風呂に入っていた時、海の上に虻が出ていたのに午後から天候が悪くなりました。海には白い波頭が高く押し寄せ、翌日は船が欠航になるというので一日早く帰るはめになったのです。
 十二月には、一晩中風が吹き荒れていたと思ったら海は大荒れ、いつもは穏やかな海が荒れ狂っていて、朝の大型船しかないといわれました。急遽予定を変更して港へ行くと、大型船が左右に大きく揺れながら着岸を試みているのを見て肝をつぶしてしまいました。船室に横になり、ぐったりしながら式根島から神津島まで行きまた戻る十二時間に及ぶ船旅は忘れることができません。しかし大島を過ぎたあたりから波も穏やかになりました。甲板に出て眺めた日没の美しさ、ライトアップされた横浜港の夜景は旅の締めくくりとしては最高の光景であり、船旅の楽しさを再認識したものでした。
 また、三月の末に大型船で帰ったときは、転勤になった先生方を花束やテープで見送る光景があちこちの港で見られました。利島での、先生の名前を呼びながら男の子たちが岸壁から次々に飛び込んでいく光景は、まるで映画のワンシーンを見ているようでした。

●前田さんの死
 前田さんは式根島の出身、式根島の生き字引のような方で、船で新島にやってきて、私たちが着くのを待っていてくれました。お会いしてからしばらくして、体調を崩されましたが、気分のいいときには博物館に見えていました。でもご自分が手がけていた文書の整理は続けることができなくなって、私たちが引き継ぐことになりました。それまでは、点検をすれば良かったのに、虫食いでくっついたような文書を広げて内容を読んで整理をしていくのは大変な仕事でした。二人一組になって、四苦八苦しながら文書を読み、整理していきました。なかなか原文書を手に取る機会のない素人の私たちにとっては、それはそれで楽しい作業でもありました。この仕事も済み、先が見えてきたと話していた昨年の夏、前田さんが亡くなったという悲しい知らせが届き、皆、間に合わなかったと肩を落としたものです。息子さんの話では最後まで文書のことを気にかけ心残りにしていたとのことでした。前田さんが亡くなり梅田さんはすっかり気落ちしていらっしゃいますが、なんとか頑張って目録を作りましょうとお願いしています。

●島での楽しみ
 仕事や家事をやりくりして、いそいそと新島に通っていますが、それもそのはず新島行きにはお楽しみがいっぱいなのです。素人のやる地味な目録作りには補助金も出ることはなかなかなく、完全なボランティアですが、みんなやりくりしながら出かけています。仕事が済むと、温泉につかりながら海を眺めると、向こうに見える式根島には明かりがともり、日がとっぷり暮れていき、日頃のあわただしい時が嘘のようなゆったりした時間がすぎていきます。泊まっているのは海の見える村の施設で、食事は近くの温泉ロッジに歩いて出かけます。お料理を伴ってくれる方のご主人が漁師さんなのでいつも地のおいしい魚が食べられ、アシタバの天ぷらや胡麻和えとともに生ビールをおいしいものにしてくれます。時には、伊勢エビの大サービスがあったりと、食いしん坊にとっては楽しみが多いのです。
 海辺には二十四時間いつでも入れる無料の露天風呂があり、朝、食事前に行くと、仕事に出かける前のおじさんたちがいて、いろいろ話を聞かせてくれます。朝日を浴び、海を眺めて入る露天風呂は最高です。こんな楽しみがあるからいそいそと出かけ、すっかり元気になって島から帰ってきているのです。

●これからの予定
 次回は三月の末 (編集部註・2005年3月のこと)に島に行くことが決まっています。パソコンに入力してくれる人が見つからなかったり、いろいろ問題はあるのですが、明治11年の東京府移管までの文書を載せた目録を刊行するのが今年の目標です。この三年の間にメンバーの状況も変わり、親の介護や自身の病気、年金生活など、ボランティアで島通いするのも厳しい面も出てきていますので、一区切りをつけて次に進みたいと思っています。一区切りついたら、サーフィンは無理でもきれいな新島の海に潜ってみたい、他の伊豆諸島も訪れてみたいと夢をふくらませています。還暦を迎えて余裕のできた方、一度新島にお出かけ下さい。そして、もし、古文書に興味がおありでしたら協力してもらえると、とても嬉しいです。