寄稿6

新潟県中越地震
災害ボランティア記
さまざまな人と働いた
新潟・川口町の10日間

松田隆夫

戻る     

 大災害が起こる度に、報道される被害の重大さを目にして自分に出来ることはないかと考えても、何も思いつかなかった。救援物資が「迷惑物資」になる埼会も多いと聞いて、義損金に参加するほかは何もしなかった。1995年阪神大震災の時に災害ボランティアの様々な活動が大きく、詳しく報道され、目から鱗が落ちる思いでこういうことが出来るんだとわかった。しかし、あの時はすぐに行動に移せずにいるうちに、阪神ボランティア報道を飲み込んでしまったオウム真理教事件報道に目を奪われ、阪神のことは忘れてしまった。その後タンカー事故や地震や水害が起こった時にも災害ボランティアを考えたが、ぐずぐずしているうちに機会を逸してしまった。
 今回新潟県中越地震が起こった時に、やっと決意して行くことにした。ボランティア休暇5日に土日を2回はさみ有給休暇をプラスして10日間、職場の皆さんの協力で仕事をやりくりした。各地に問い合わせしたが「県外からのボランティアお断り」という所が多い中で、川口町災害ボランティアセンターの 「県外ボランティア大歓迎」というメッセージに一番ひかれたので、ここに行くことにした。

●震源地川口町
 四駆のワゴンに、寝るための寝袋、箱買いしたカップ麺、飲み物を積み込み、友人が貸してくれたスノータイヤをはいた。12月4日早朝3時に出て、深夜の関越自動車道を走り、越後川口ICを出てからくねくねと迂回して通行可能な唯一の道を通って、6時に川口町に入った。道路がいたるところひび割れ波打っていて予期せぬショックで車がバウンドする。路肩が崩れ谷に落ち、山側から土砂と岩とが道にはみ出している。
 夜が明けて家屋の姿がうっすらと見えてきた。倒れんばかりに大きく傾いている家。かすかに傾いている家。1階がつぶれ2階が1階になってしまっている家。壁は落ちサッシがひしゃいでいる家。完全に崩壊している家。瓦が落ちてブルーシートを掛けて雨をしのいでいる家。大震災の凄まじい姿が闇の中からゆっくりと浮かび上がってきた。農家の巨大な梁が軽トラックを真っ二つに潰している。豪雪地帯独特の高床式の3階建ての家屋の2階がつぶれ、1階の車庫の上に3階が覆いかぶさっている。神社の鳥居は真ん中の石が落ち、墓地の石碑が軒並み倒れて、石の荒海のようになっている。傾いたお寺の本堂の外で、住職が朝のお経を上げていた。何とも言えず悲しい風景が広がっていた。

●災書ボランティアセンター
 川口町災害ボランティアセンターの前には夜のうちに到着した各地のボランティアの車が止まり車中で仮眠しながら、8時からの受付を待っている。僕は修理して持って来た古い一輪車5台を組み立てながら待った。受付が始まった。名前、住所、年齢、携帯電話番号、ボランティア保険加入の有無・期間等を登録して、ガムテープで作ったネームプレートを胸につける。大ハンマーやバールなど大工道具も一通り持参して倒壊家屋の片付けなどやりたいと思っていたが、若くない年齢を考慮されたのか、長期のスタッフとして物資班に入ることになった。

●フリーマーケット
 川口災害ボランティアセンターは営業停止に追い込まれた特別養護老人ホーム「あおりの里」の軒先(玄関前広場、ピロティ、駐車場)を借りてテント、プレハブを建てて活動している。その組織は、総務の下に活動班、車両班、物資班、庶務班(ボランティア受付・総合案内・食事当番)、被災した子ども達と遊びながらケアする「元気もりもり隊」などに分かれている。
 物資班の仕事は大きく二つ、
(1)倒壊家屋の片付けなどに出かけて行くボランティアに必要な用具、ヘルメット、長靴、革手袋、バール、一輪車などを貸し出すこと
(2)全国から寄せられた救援物資を仮倉庫から運び、被災者に配ること
である。
 朝8時から現場に出かけて行くボランティアを見送ると、入れ違いに被災住民の方々が物資を見に来る。全国から送られた、ミネラルウオーター、トイレットペーパー、レトルトご飯、しよう油、缶詰、石けん、洗剤、ウエットティッシュ、カイロ、マスク、粉ミルク、子ども用おむつ、大人用おむつ、生理用品、毛布、布団、食器、下着、靴下、防寒着、シャツ、ズボンなど、ありとあらゆる品物をスーパーマーケットのように並べて、直接選んでもらう。
 特に衣類のコーナーは男女別にジャンパー、シャツ、セーター、ズボン、下着、靴下などをフリーマーケット風に並べる。住民のニーズを把握して、必要な品物を提供出来るように倉庫からワゴンで運ぶ。一人暮らしの老人世帯には宅配などもした。宅急便で全国から送られた段ボールの箱は、開けてみないと中身が分からない。
 「ニュースで乳児を抱えた母親が困っていると開きました。うちの子が大きくなったので使わなくなったベビー用品を送ります」という心のこもった手紙と一緒に、粉ミルク、おむつ、ベビー服、おまけに大人の衣類まで入っているものもあった。
 役場の担当職貝にはこの手の救援物資を選別する時間は到底ない。しかし被災住民のニーズはあるので、ボランティアの手で選別して分野別に展示出来れば飛ぶようになくなっていく。フリマ経験のあるボランティアの能力を生かして展示したため、山と積み上げられて迷惑がられていた衣類の段ボールがどんどんなくなっていった。ぐらぐらと来た中で産気づき、震災当日に生まれた赤ちゃんとママとにせっせとおむつ、粉ミルクを配達した。

●震度7の地雷とは……
 物資を取りに来る住民との会話は、自然と地震の話になる。「ガラスが割れ、壁が落ち、家具が倒れ、電気が消え真っ暗になった。腰が抜け、いも虫のように家から這い出した」。タクシーの運転手は「仕事が終わって会社に帰る時に地震が起こった。何とも言えない大きな音が、津波のように車の後ろから押し寄せ、ザアーッと車を追い越して行った。壁が落ちガラスが次々に割れ人々がキャーと上げた悲鳴だと後でわかった。」と言っていた。一回目の地震は強烈で大の男も腰を抜かして四つん這いになってやっと家の外へ追い出し電信柱にしがみついていたところで二回目の地震が来た。多くの家は二回目の地震で倒壊したらしい。
 震度7という強烈な地震で多くの家屋が倒壊しながら川口町の死者が4人という被害にとどまったのは、住民がとにかく家の外へ避難したからだという。
 人々が起きている時間で、火事が起きなかったことも幸いだったのだろう。先のタクシーの運転手は崩れかけた道を急いで家に向かった。「すべての電気が消え真っ暗になった道路を必死に走っている時、嫌な予感がして草を止めた。降りてみると道の先が谷に落ちていた。あのまま進んでいたら、あの世行きだった……。車を置いて、3時間歩いて家に着いた。おやじおふくろは無事で家は倒れてはいなかったが、認定は全壊(入居禁止)だ」。
 学校の体育館での避難生活は徐々に終わり、仮設住宅が完成して、引っ越しが始まっているところだった。全壊・危険住宅という赤紙を貼られた家に住み続けている人も多く、2階以上がつぶれた高床式家屋の1階車庫に住んでいる住民も多い。またつぶれた家の脇にある豪雪地帯独特のかまぼこ型車庫で暮らしている家族もいる。家財道具・食器・衣類をすべて失い、生活は困難を極めている。家が残った人も家具がすべて倒れて、家の中はめちゃめちゃになっている。ボランティアの支援を受けて住民は家の中を片付けていた。

●コシヒカリの魚沼では……
 ここは新潟県北魚沼郡、日本で一番高い値のつく米の産地だ。朝晩よく霧が出て、昼夜の気温差が大きく、美味い米が出来る条件がそろっている。急斜面に千枚田のように細かい田んぼが階段のようになっているところも多い。地震で田んぼのあぜ道が崩落している。しかし、仲良くなった米作り農民に案内してもらって驚いたのは、田んぼの中に大きな亀裂が入り、よく見ると田んぼが波打っていることだ。水田は真っ平らでなければ水が溜まらないわけだから、「来年は8割休むしかない」と彼は嘆いていた。
 今年はまだ雪が降っていなかったが、降り始めれば2メートル以上の積雪になり、溶けるのは4月末。5月初めの田植えまでに波打った田んぼを重機で修整するのは日数的に不可能だ。もう一つは山の形が変わるほど地盤が動いたので、急いでお金をかけて修整しても、その後さらに地面が動く可能性がある。そうするとつぎ込んだ費用は全く意味がなくなってしまう。だから、「一年様子を見るしかないなあ……」と嘆いていた。魚沼産コシヒカリは大減産。農家は一年無収入。その上修復費用がかかる。なお、地震が続く中で二次災害を防ぐために自前の重機であぜ道を修整した農家には「地震による被害が現認出来ないので補助金を出せない」と国・県が言っているのを、農民達は怒っていた。
 家がつぶれ車庫のこたつで暮らしているお年寄りが「なにより、子どもの頃の遊び場だった裏山の形がまるで変わってしまったのが悲しい」とつぶやいていた。

●「しっかり食べて今日l日元気に働いて下さい!」
 川口町ボランティアセンターでは、2泊4日以上のボランティアに朝昼晩の無料の炊き出しがある。食事の前には必ずイソジンでうがいをし、アルコールスプレーで手を消毒しなければならない。食事班が「しっかり食べて今日一日元気に働いて下さい!」とお盆に給食を載せてくれる。これが、何とも言えずうまい。食担班が手に入る食材で工夫して手作りのおいしい料理を作ってくれる。地元の農家差し入れの食材もふんだんに入って。オマール海老のスープに牛努、こんにゃく、シメジ、里芋、人参、大根、長ネギが入っていたのには感動した!
 カレーにじゃがいもだけでなく、よく煮えた大根が入っていたのも新しい発見だった。食欲に応じて控えめにも出来るしお代わりも出来る。ゴミを出さないように残すことは厳禁。しかもテーブルの中央には、食べ放題のフルーツのお盆が載っている。みかん、リンゴ、柿、イチゴ、その日によって違うが、これも差し入れに支えられている。食べ終わると、お盆の上にあらかじめのせてあるウエットティッシュで容器をきれいに拭き上げて返却しなければならない。水道が使えないための工夫なのだろう。
 大学生が 「普段の食事よりリッチで健康的だよな。ボランティア太りするかも……」とつぶやいていた。時々、各地のボランティアグループによるお汁粉などスペシャルの炊き出しがある。福島県須賀川市青年会議所のグループは2日間食事担当を交代して炊き出しをしてくれた。メニューはハンバーグライス、カレー、ハヤシライス、中華井、豚井。餅入りお汁粉の炊き出しなども行われた。

●「松戸の蕩」
 災害派遣の自衛隊が魚野川の河川敷に駐屯して住民にお風呂を提供していた。松戸の部隊なので入り口に「松戸の湯」というのれんがかかっている。このお風呂がボランティアにも無料開放されていて、13時から23時までいつでも入浴できる。魚野川の水を汲み上げレベルの高い機械で溝過し、ボイラーで沸かして浴槽に入れるのだ。カーキ色のテントの風呂だが、町の風呂屋と同じようなサイズでかなり大きく、ゆったりと入れて一日の疲れがとれる。しかも自衛官も同じ風呂に入るので、毎日自衛官と裸の付き会いが出来る。
 「住民からこれだけ感謝されてやりがいのある仕事ですよね? イラクに行くよりいいんじゃないの?」と話しかけると、気さくに答えてくれ、楽しく語り合った。自衛隊も各地の部隊が来ているし、要所要所の交通整理をしている警察官も各地から応援部隊が来ていて、広島県警などというパトカーが走っている。日本の社会全体が被災地を支える複合的なシステムが実感できる。

●ボランティアの仲間たち
 被災住民の多様なニーズに応えるのが行政とボランティアとのチームワークだが、ボランティアの人たちは実に様々な能力を持っている。全国各地からありとあらゆる年齢層や職業の人たちがボランティアに来ている。
 定年退職して時間的に余裕のある年配層。ボランティア休暇・有給休暇などで来ている人。個人商店の経営者。災害に備えてノウハウを学ぶため派遣された各県職員。リストラにあって失職中の人もとても多く、長期滞在してがんばっていた。職業病で休職リハビリ中の人。フリーター。大学生。島根大学ボランティアサークルの人たちは数十人バスで来て長期滞在していた。信州大学のグループ。高校生。家庭婦人。看護師。各地の社会福祉協議会などボランティアグループの企画で来た人たち。農協関係の団体。土日を利用して団体で日帰りや一泊のボランティアをしていくバスの団体。地元FM放送局の番組が呼びかけた日帰りボランティア。被災者のストレスを軽減するために駆けつけたマッサージ師。トラック持参でボランティアに参加している全国各地生協の運転手。ユンボの免許を持っている者はその能力を発揮し重機を動かしている。鳶職は家の解体を指揮する。

●自主管理の宿泊所
 車に泊まる覚悟で来たのだが、仮設住宅に入居した被災住民が寝ていた小学校の給食食堂を町がボランティアに提供してくれた。ボランティアセンターはこのスペースを「のぞみの里」と命名して、自主管理していた。
 初日に入り口の受付で登録すると寝るスペースを指示される。男女別室。床全面に段ボールがきれいに敷いてあり、通路が赤線で表示され船の三等船室のように各人のスペースが並んでいる。泊まっているボランティアが100人ぐらいいただろうか。もちろん禁酒禁煙。9時に簡単な注意を伝達するミーティングがあり、一斉に窓を開け換気する。それまでは屋外の仮設トイレだったのが、ちょうど屋内の水洗トイレが復活したところだった。消灯は11時。夕方活動を終えて宿舎に戻ったら登録の延長をしなければならない。
 受付には、マスクとうがい薬と風邪薬とが置いてあり自由に使うことが出来る。風邪の蔓延を防ぐことが最大限のボランティア活動を保証するというコンセプトだ。体を十分に伸ばして寝られ全く寒くないこの宿泊所が本当にありがたかった。車の中で寝るのは寒いしトイレもないので正直辛い。若くない僕が十日間体調も崩さず体力もダウンせず元気にボランティア活動が出来たのは、この宿泊所と食事の提供とが大きいと思う。

●「川口町方式」
 普通、災害ボランティアの宿泊・食事は「自分持ち」が当たり前の中で、この「川口町方式」は全く新しい試みだ。川口町災害ボランティアセンター本部長の小山さんにその理由を聞いたところ、小千谷や長岡などには宿泊出来る民宿もあるしコンビニも多いが、川口町は道路が寸断され孤立状態にあり、宿泊施設がなくコンビニも営業再開出来なかったことから、この方式に踏み切ったという。行政と住民とボランティアとの信頼関係があってはじめて可能だったと思う。
 様々な議論はあったらしい。「被災住民に送られた救援物資・義損金をボランティアが食べちゃっていいのか7」とか。しかし今、この方式が全国から注目されている。ボランティアにとって体力の消耗が少なくそれだけボランティア活動に専念できる。日数を伸ばすことも可能になる。リストラ組も活躍できる。さらに、こういう体制が整ったことで、より多くのボランティアが川口町を訪れ活動するようになった。従来方式のボランティアには耐えられない層の人々もボランティアが出来るようになる。
 僕自身も義損金に参加したが、僕の出した義損金が災害ボランティアの食事代・宿泊代になってもいいと思う。もちろん一義的には被災住民への支援だが、被災住民を支え災害から復興するにはボランティア活動が不可欠だから、そういう活動も含めて応援していると理解すればいい。実際に各地のボランティアが川口町ボランティアを応援するため炊き出しに来ていた。これも同じことだと思う。ボランティア活動が盛んになることは、必ず被災住民の利益に還元される。

●鮎の塩焼き50円
 川口町ボランティアセンターの活動によって住民のボランティアへの信頼も深まっているように見えた。8日目の夜、川口町住民有志の企画でボランティアと自衛隊とに感謝するライブコンサート付き居酒屋?(パーティ) が開かれた。
 サントリーの応援で、ビールが100円。町民の応援で鮎の塩焼き、焼き鳥、巨大なこんにゃくの田楽、チゲ鍋一杯など料理がすべて50円、という考えられない価格破壊。腹一杯食べてビール3本飲んで500円。実は十日間に使ったお金は、行きの高速道路代5600円を除けば、これが唯一の出費だった。帰りの高速道路代は「災害派遣等車両証明書」によって免除された。10日間で酒を飲んだのはこの日だけだったが、このパーティは別の意味でも有意義だった。
 自衛官が部隊長以下30名ほど参加して、一緒に飲んだ。風呂で仲良くなった若い自衛官ともまた会って親交を深めたし、隊長からゴラン高原のPKO活動の苦労話についても聞けたし自衛隊をめぐる議論もしっかりできた。最後はさわやかに握手して別れた。制服の自衛官と一緒に酒が飲めるチャンスはもう二度とないだろう。

●楽しかった!
 温かく迎え入れてくれた川口町住民の皆さん。能力を生かしてもくもくと働いていた素敵なボランティアの仲間たち。協力して仕事をやりくりしてくれた職場の皆さん。感謝します!
 規則正しい食生活・日々の盛り沢山のボランティア活動・深い睡眠・禁酒の宿泊所によって、体が締まり軽くなった。そして毎日毎日が楽しく充実していたので、何より精神的にリフレッシュした。帰宅して測ったら、体重が3キロ減っていた。支援に行ったのに恥ずかしながら、仲良くなった人たちから沢山お土産をもらってしまった。白菜。大根。魚沼産コシヒカリ。マコモタケ。これがなんとも言えずおいしかった!
 川口町の10日間のエキサイティングな時間の中で学んだことを生かして、自分の住んでいる所に大地震が起こった時、どうしたらいいのか、災害ボランティアを受け入れるシステムをどう立ち上げればいいのか考えてみたい。
(編集部註・文中の名称や状況などは2004年12月現在のものです)

*編集部付記 川口町ボランティアに出かけた松田さんに、昨年暮れに国立で行なわれた大野春樹「パライソ」のライブコンサートに集まった人から義捐金を届けてもらいました。