故人を偲ぶ
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秋問幸男君の冥福を祈る

岸野昭雄

 秋間幸男君は、平成10年4月28日に逝去したという。心から秋同君に、哀悼の意を捧げたい。
 思えば、僕が、秋同君のことを知ったのは、立川高校入学直前であった。高校入学のための提出書類に「保証人の誓約書」なるものがあり、僕は母親に「誰に保証人になってもらおうか」と相談したところ、「義三郎伯父さん(母の兄)がよい」と言う。そこで、僕は、書類を持って伯父の家に行き、伯母に伯父のサインと印鑑をもらった。この時、伯母は、「私の甥の秋間幸男も、今度立高に入るので、同級生になるから、よろしく」
と言った。
 秋間君は、八王子市立横山中学校出身で、西八王子駅から立川駅まで中央線で通学していた。僕は、日野町立日野第二中学校出身で、豊田駅から立川駅まで同じ中央線で通学していた。だからどこかで一緒になったことあるかも知れないが、僕は、八王子の連中は同じクラスになった連中しか知らなかったので、立高在学中は、彼の顔を知らなかったし、勿論、彼と話をしたことがなった。
 その後、秋間君は、立高を卒業後、一橋大学へ進み、日本電信電話公社へ就職したと伯母から聞いた。
 僕が、秋間君と初めて話をしたのは、立高卒業後30年もたった平成8年1月のことだった。立高入学時に僕の保証人になってもらった伯父が逝去し、その葬式の時だった。伯母が、秋間君を紹介してくれた。僕たちはお清めの酒を飲みながら、一時間近く四方山話をした。これが、僕と秋同君の最初で最後の出会いとなってしった。
平成13年6月に、伯母が亡くなった。伯母の実家跡取りである秋間君のお兄さんが列席されていたので、幸男君はどうしたのかと尋ねると、「弟は、3年前にガンで死んでしまった。若い(52歳)のに残念だった」
との返事が返ってきたので、驚いた次第である。
五十二歳と言えば、責任ある地位につき、仕事もババリやる年齢であるが、病魔に冒され秋同君は本当に無念であったろうと、心が痛んでくる。秋同君どうか安らかにお眠り下さい。
 
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ふーちゃん、
栗原房江さんを偲んで


山岸(片貝)勝子

 栗原房江さんなんて呼ぶと、「あれ誰だったかしら?」と思うほど、「ふーちゃん」 という呼び名と響きと、そして彼女そのものが、私にとって大事な、空気のような存在でした。ですから、こんなに突然私の周りから消えてしまうなんて思ってもいませんでした。
 2002年7月10日嵐の夜帰宅すると、ふーちゃんのご主人から留守電が入っていました。嫌な予感がして、胸をどきどきさせながら震える指で番号を押しました。
「房江が昨日倒れて、発見が遅かったので、意識不明で……」電話の向こうのご主人に、「嘘でしょ、そんなことは絶対ない。嘘いわないで」と何度も頼みましたが、
「本当なんだ」という言葉しか返ってきませんでした。
 それから約1カ月後の8月3日午前11時頃、意識が戻ることなく、あなたはこの世を去ってしまいました。
 自宅に戻ったあなたの枕元で、その年、新しく家族となった犬のヨ太郎くんが、あなたの帰宅を喜んでいるかのように飛び跳ねていました。
 思い起こせば、ふーちゃん、あなたとは、高校1年のときから30年来の付き合いです。初めてあなたを見たのは、入試のときでした。答案を書き終わってふと顔をあげると、あなたの横顔が目に入りました。あなた特有の顔をすっとあげ、遠くを見つめている風情、なんて綺麗な横顔なんだろうと思ったものです。
 そのあなた、旧姓塩野房江さんが、入学したら同じクラスにいました。いつ、どのように親しくなったのかは憶えていませんが、いつの間にか、同じクラブに入り、高校時代、学校にいる間は、何時何分の電車の一番前の車両で三鷹から乗ってくるふーちゃんと落ち合い、朝から帰りまでいつも一緒。手をつなぐのが好きなふーちゃんでしたので、女の子同士のでこぼこコンビでよく手をつないで歩いていました(今考えるとよくもまあと思いますが)。男の子にもてたふーちゃんの悩みを、屋上で夕方遅くなるまで頭を寄せ会いながら、話し会ったものでした。
 高校2年の秋だったと思います。文科系にすすむのだとばかり思っていたふーちゃんが、美術系を希望し、デッサンに通いはじめ.たという話を冊かされました。明日デッサンにいくので付き合ってといわれ、二人でデッサン教室の近くまで歩きながら、なんで美術学校を選んだのか話してくれました。話した内容はすっかり忘れてしまいましたが。
 その後、私たちはそれぞれ違う大学に入り、会うことは少なくなりました。武蔵野美術短大に入学したあなたに誘われて学園祭に行ったときのことです。案内してもらいながら、彼女はこのような自由奔放(と当時の私には思えました)な環境にあっても、門限を守る箱入り娘のお嬢さんなんだなと思ったのを憶えています。
 優秀な成績で4年制に編入したふーちゃんは、建築事務所に就職し、そこで後に結婚するご主人の栗原さんと出会いました。新橋にある喫茶店で、ふーちゃんは私に栗原さんを紹介してくれたのですが、そのすぐあと、栗原さんは、ハワイに留学しました。ハワイまで彼に会いに行ったふーちゃん。あの厳しいご両親がよくハワイ行きを許してくれたものだと驚きました。そのときはまだフィアンセであったご主人とのハワイでの写真を、亡くなった後お焼香に伺ったとき見せていただきました。その写真には、きれいで若くて幸せに輝いている笑顔のふーちゃんがここかしこにいました。
 ふーちゃんは日本で、私はアメリカでしたが、偶然にも結婚式が同じ年の同じ日でした。
 筆まめだったふーちゃんは、手紙をよくくれました。ですから、お互い離れて暮らした4年ですが、生活ぶりが手にとるように分かりました。
 結婚してすぐにご主人が病気になり、その後は、すぐ上のお姉さんの病気と、それがふーちゃんの看病生活の始まりでした。三鷹のお家に引っ越されたのもお母さんの病気の面倒を見るためでした。
 子どもが欲しかったふーちゃんは、私の息子をとても可愛がってくれました。クリスマスや、子どもの日、お誕生日など、息子の小さいころは、ふーちゃんも交えて一緒にお祝いをしたものです。お葬式のとき、一番上のお姉さんから、「家の子供達より、可愛がっていたわよ」言われてしまいました。また、息子も「ふーおばちゃん、ふーおばちゃん」と慕っていました。「私達に何かあったら、息子を育ててね」と本気で約束しました。
 35歳になったとき、人間ドックで、腸にポリープが見つかったふーちゃんは、今度は、自分が入院してしまいました。幸いにも悪性のものではなかったのですが、それから約5年間は、定期検診と薬を欠かさなかったようです。40歳代に入り、今度は、私が子宮筋腫のため入院、そのとき、ポットに入れたコーヒーとケーキをお見舞いに持ってきて、「私は見舞い慣れているので、何が欲しいかわかるのよ」と言ってポットから温かいコーヒーを注いでくれました。何だか、とても嬉しくなったのを憶えています。
 自宅で、「パース」と呼ばれる、新築家屋の完成予想図を描く仕事をしていたふーちゃんは、いつの間にか止めてしまいました。ふーちゃんは亡くなる少し前に、「仕事の締め切りが迫って忙しくなると、家族にどうしても優しくなれないの。それが辛いから止めた」と話してくれました。出かける誘いをしても、ご主人がハッキリと遅くなると分かっている時以外は、出てこないふーちゃんに、「朝、遅くなるかどうか聞けばいいじゃない」と言うと、「悪くて聞けない」と言うのでした。ふーちゃんのご主人は、奥さんが出かけるのを嫌がるような人では、決してないのですが、やはり、ふーちゃんの家族を思う優しさから出てくるのでしょうか。
 亡くなる前の10年ぐらいは、糖尿病を患っているお母さまの朝、昼、晩の3度の食事のために出かけることもままならなくなり、会う回数も減りました。ときどき電話をかけてきて1時間ぐらい長話をしました。それでも、お互いの誕生日と、5月の連休に渋谷のオーチャードホールにバレエ(ご主人の仕事の関係からチケットが手に入り、誘ってくれました)を観に行く、最低3回は会っていました。亡くなった年の5月にも一緒にバレエを観に行き、新宿で食事をしました。
 「早く一緒に自由に出かけられるようになるといいね。亡くなったひろちゃん(2番目のお姉さん)が、ふーとかこちゃんは、おばあさんになって腰が曲がってもお互いに、ふーちゃん、かこちゃんと呼び会って仲良くいるんだろうねといったけど、腰が曲がらない内にどこかに行こう」
「おばあちゃんが元気で、頭もしっかりしているし、私の方が、先にぼけてしまいそう。私の方が先に死んじゃうかもしれないわ」
「冗談でもそんなこと言わないでよ。でもぼけるのは、本当かもよ」
と笑いながら、食事をし、ご主人に内緒でもってきた、ヨ太郎くんの写真を見せてくれました。翌日、電話でお礼を言って、また7月になったら会おうね、と約束をしました。それが最後でした。

 おっとりとし、人に優しく、でも芯はとても強かったふーちゃん。長い間ありがとう。そしてこれからもよろしくね。(あなたは、私の心の中に生きています)