私にとっての立高
   
たった三年のあの日々が       
どうしてこうも輝いているのか!
 

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私にとって「立高時代」とは?
孝本敏子(旧姓・関谷)


 今年、四二年ぶりに高校の同期会に出席して、私にとって高校時代とは何だったのか、というようなことを考えることとなった。そこで、華甲同期会の感想とは別に、このようなテーマで少し書いてみたいと思う。
 同期会に出るにあたり予習をしておかねばと、立高のアルバムを久しぶりに開いてみた。今はカラー大判が当たり前であるが、ボロボロのボール紙カバーから取り出したアルバムには、白黒写真が古風にならんで
おり、歳月を感じさせた。クラス集合写真を見ていて、並び方が出席番号順ではなく、皆バラバラなことに気がついた。そんな些細なことを、と思われるかもしれないが、私自身は、教員をしていて、出席番号順でない集合写真はとったことがない。番号順に並ばせるのに大声をはりあげていた私にとって、この無造作はうらやましくさえみえた。
 私は立高時代、特に何かに打ち込んだということもなく、勉強もクラブもほどほどだった。ブランクの時間に図書館でのんびりすごしたことや、古江(現・吉田)悠子さんと多摩川の河原や国立の大学(?)構内を散歩したり、ススキ狩りをしたりした記憶がある。
 私は、自分で言うのも変だが、中学までは律儀で真面目な生徒だった。たぶん、決められたことを決められたようにすることで安心するタイプであったと思う。その私が、立高で、自由自主の気風にとまどったのである。
 高校に入り最初にびっくりした記憶は、生徒会の役員が教室に来て、立高の自由自主について語ったときだった。たしか私の記憶では、生徒会の先輩が、立川にあった赤線の廃止運動をした、という話であった。
 またこれも、一年のときだったと思うが、生徒会で、当時先生専用であった中央玄関を生徒も通れるようにしてほしいという運動をしていて、アンケートがクラスにまわってきた。私はそれに、先生専用のままがよい、と書いた記憶がある。結果は私の考えに反し、生徒会の要望が通り、中央玄関を生徒が通行できるようになった。
 そのような私が、自分で選び自分で決めるという中にほうりこまれたとき、かなりとまどったり悩んだりしたのではないかと思う。二年のときは、かなり悩み多き時代、であった。ヘッセの内省の世界に心ひかれたり、敬虔なクリスチャンであった岩下さんと話をしたりしたことを覚えている。その頃、社会問題に鋭く取り組んでいた社研は、少し尊敬しながらも、私にとっては別世界であった。
 そのような私であったが、行事やコンパ、何の単位かは忘れたが、裏庭? で豚汁やおしるこなどをつくって和室で語り合った記憶がある、の自由な雰囲気は感動だった。三年になると、自分で時間割をつくり、ブランクも結構あった。これは、かなり生徒自身に任される部分が多い学校の体制だと思う。
 中学までは、ある意味、自由を恐怖していた私であったが、高校を出る頃には、自由を大切な価値観として、精神形成がなされつつあったのではないかと思う。自由な校風と、あまり生徒の細部を規制しない自由放任的な学校の体制があったればこそ、私は、中学時代とはちがった方向で、自分の精神の土台を形成したのだと思う。その意味で立高に学んだことの意味は大きい。


 私は今、高校の教員をしているが、前述したように、私の勤務した学校では、クラス写真は出席番号順が当たり前であるし、生徒の裁量に任される部分はかなり少ない。服装検査や頭髪検査に追われる日々でもある。それでも一昔前は、学校によってはおおらかな部分もかなりあったが、ここ数年、急速に、教員自身の自由がうばわれつつある。教員自身、自由な意思表現ができない中で、生徒に、自由や自主の意味や価値を伝えることは不可能である。
 私が体験した、悩みながらも自由の価値を体得していったような高校を、今後、都立高校には望むことはできないかもしれないと思うと、寂しくもあるし、また恐怖でもある。
 一人一人が自由の価値を認識してこそ、ファシズムが個人個人にせまってきたときに、それに抵抗できる。教員が規制され、その教員が生徒を規制する中で育まれるものは何であろうか。
 都立高校の現場にいると、ファシズムの足音が聞こえてくるような気がする昨今である。私はあと少しで専任教員を離れるが、今日の状況をもたらしたものは、強力な行政の方針であるとともに、その方針に抵抗しえなかった私たち教員の責任でもあることを考えると、苦い思いが残る。




吉永小百合 後日談
上阪信道


 「泰山木」が届くたびにとても懐かしく隅から隅まで読ませてもらっています。親しかった同級生の話などは同じ思い出の共有もあり忘れていたことがフラッシュバックされます。
 庭師上村君の話には私が酔っ払って倒れていたという冷や汗ものの話が出ていました。形だけ所属していた茶道部の文化祭準備に駆り出され夜遅くまで学校に居残り、仲間と一緒にビールに挑戦、体中真っ赤になって茶道部の部室で寝ていたときのことかと思います。自分がアルコールに弱い体質だということを知らなかったのです。
 この茶道部の部室は大変便利な場所で授業中の昼寝に最適、また、生物の授業で鶏の解剖をしたときには炭火が使えるので同じ鶏グループで焼き鳥を作りました。大腸まで残さず食べたところ、鶏糞の臭いと変な味がしました。
 一、二年のときは親の思いをよそに全く勉強せず映画館通い。立川は映画好きの多感な高校生には誘惑だらけの街でした。それでも三年になりそろそろ勉強を始めねばと一年の分から学習開始。
「泰山木」七号に河合(石井)美智子さんと山岸(片貝)勝子さんが書いているように、夏休みのある日、学校に吉永小百合一行が撮影に来ました。たまたま登校していた私は即座に勉強を放り出し、ロケを観たり助監督と話をしたりと大忙し。
 毎学年末には赤線が赤点になり、落第という恐怖にさらされていた私に現役合格はかなう訳もなく、一浪して早稲田の政経学部に辛うじて入学しました。
 さてここからが本題ですが、入学後直ちに馬術部に入部。親戚に乗馬をする人がいて何度か馬に乗せてもらったことがあり、また馬術部は未経験者でも体育会の運動部に入部できる数少ないところだったからです。誰でも疑問に思うこと「馬術は金が掛かるのでは」は公務員の倅としては当然上級生に質問しましたが、大学が費用を賄ってくれるので金は掛からないとのこと。その人にとっての「金が掛からない」と私にとっての「金が掛からない」は大分程度の差があるということが後になってわかりましたが。
 入部早々先輩から新入部員勧誘に付き合わされ、何もわからないまま夜の文学部の教室へ。なんと勧誘のターゲットは吉永小百合だったのです。先輩が馬術部の説明、私は「いい先輩が多いですよ」と口から出任せの援護射撃。話を聞き終えた彼女が後日行われる新入部員集合式に参加すると言ったのにはこちらがびっくり仰天。実は吉永小百合と口をききたかっただけのミーハーの先輩は大喜び、帰りは高田馬場駅までタクシーに乗せてくれました。
 馬術部で吉永小百合と私は同じ馬の世話係となり、一緒に馬房掃除のあと彼女が買ってきた二本足のアイスクリームを折り分け二人で食べた、などという世のサユリストが聞いたら投げられそうな思い出もあります(彼女が一人で食べることに気がひけただけの話)。
 男性部員同士の話のとき、吉永小百合に見つめられたとある部員が自慢し出すと俺も俺もと名乗りを上げる者多数。視力の悪い彼女は相手を認識するのにじっと見つめる癖があるのだという結論に落ち着きました。彼女はよくテレビで、体育会系の性格です、と言っていますが、性格のことはさておき体育会に所属していたという事実はあるわけです。
 この馬術部は当時、学生馬術界で試合成績はトップクラスでしたが、部のマネージメントは全く駄目で、私を含め同期部員二十数名は全員途中退部。退部後も親しい同期の仲間と在学中いつもつるんでいました。卒業十数年後そのメンバーが中心になり落馬会ならぬ楽馬会を作り、これに落馬(途中退部)しなかった先輩達も加わり毎年一回の集まりを始め、これが現在まで続いています。
 長続きの理由、そう、もちろん吉永小百合が参加するからです。この話をすると「嫌な奴」、「自慢できることは他にないのか」「俺に紹介しろ」など相手から目茶苦茶の言葉と冷たい視線が返ってきます。皆様にお会いしたとき石をぶつけられぬようこのへんで終わりにいたします。




僕の立高は「根無草」で終わった
片山布自伎


 高二の秋、立高祭での「演コン」の熱気が冷めやらぬ岩野浩二郎と僕は、同人雑誌を出そうと話し合った。
 誌名をなぜ「根無草」にしたのか、(「泰山木」四号の、岩野による「長谷川秀行追悼文」で、ネーミングは僕となっているが、僕に確たる記憶はない)、投稿者が誰だったか、(15名の投稿者のうち三分の二がペンネームを使っている)、など、細かいことはほとんど忘れてしまったが、資金のない僕らは、「予約販売」を思いつき、投稿者を求めつつ購入予約を取っていたら、田中与四郎先生に呼ばれ、「校内での販売活動はけしからん」ときつく注意されたことを思い出す。
 僕自身は、その年の暮、郵便局でアルバイトをして資金を稼いだが、それでも資金は足りず、最終的には今は亡き長谷川秀行が不足分を個人的に負担してくれたはずだ。
 インクの匂いも新しい雑誌を立高に持って帰り開いてみたら?長谷川の作品が脱字だらけ。脱字そのままに印刷した印刷所も印刷所だが、今から考えると、校正もしなかった(させてもらえなかった?)僕らも僕らだ。寒い教室で、岩野、長谷川と僕とで脱字を万年筆で書き込んだのではなかったのか。今数えてみると脱字は40か所くらいある(今僕の手元にある一冊は、多分長谷川の筆跡だろう)。何部刷ったか忘れてしまったが、大変な作業だったろう。
 「序」も「編集後記」も岩野と僕の名で書かれている。
「序」は擬古文体で、藤村に言及している。<抵抗><反抗>という字句が躍っている。当時の僕らの心象風景を要約した言葉なのだろうか。
 岩野にしろ、長谷川にしろ、僕にしろ、<死><頽廃><ニヒリズム>の匂いの強い作品を載せているが、(太宰治がどこかにあった)、それが当時の僕らの「息吹」だったのか。とにかく「根無草」には「息吹」があった。何かの「表現」を求めた息吹があった。
 そして僕は、高三の春、検診で肺病を見つけられ、清瀬の東京療養所に放り込まれた。エゴの白い花が梅雨に打たれていた。次の年の春、復学の夢も潰え、もう一年の休学を余儀なくされた時、新聞紙上に掲載された大学合格同期生の名前を一つ一つ確認しながら、涙を流していた僕に、岩野から「微塵」創刊の連絡があり、原稿を書けという。
 浪人生活に突入した岩野たちが、何を思ったのか同人雑誌を出すというのだ。ようやくベッドでの終日仰臥という刑罰のような生活から解放され、「外気療法」という社会復帰プログラムに入っていた僕は、甘い甘い「恋の詩」と、戦死する男の独白を書いた創作を投稿した。
 二年の闘病生活を終えて、復学した僕に「立高生活」は終わっていた。再発を恐れつつ、?名ばかりの「受験勉強」をしながら、授業のあとは毎日立川図書館に寄り、「チボー家の人々」「魅せられたる魂」「鋼鉄はいかにして鍛えられしか」などを読みふけった。医師になるという入学当初の志はとうに捨て、「家(五日市)から通える国立大」という、なんとも志の低い志望動機でしか志望大学を決めなかった。
 僕の立高は高二の「根無草」で終わったのである。
しかし、それはきわめて濃厚な二年間であった。