友よ!
   
忘れえぬ友がいる
 そしてその友への熱い思いがある
  君への思いを綴る!
 

 to index


忍路●ドームの家へ
岩野浩二郎 


○すでに秋へ変わっていた9月初旬の北海道へ、旅に出た。ずっと気になっていた小樽市郊外の忍オショロ路の海岸。自力でドームの家を建て、仙人のように住んだ揚げ句、そこで死んだ同期の徳井一郎のこと。彼が死んだ3年前、40年ぶりかに下手な詩を書いた。


  昆布ダシの味噌汁

僕は毎朝、味噌汁をつくる。
それは椀一杯、自分がすするだけの味噌汁だ。
まず、冷蔵庫のなかから具を探しだす。
キャベツ
オクラ
長葱
玉葱
ほうれん草
大根
白菜
なめこ
ワカメ……具にならないものはない。


小さな鍋に水を入れ、弱火の火にかける。
ダシは、昨年の秋に、北海道の友人が送ってくれた
 昆布だ。
こいつは半端ではない。
波打ち際に流れ着いたのをそのまま天日でなま乾し

ずっしり重いものをデンと送ってくれた。


こいつはしょっぱい。
磯の香りをがんがんいわせた包みを開き
天気の良い日に新聞紙を敷いた上に広げてカラカラ
 に乾した。
そのまま齧ったら、いい歯ごたえだ。


こいつを千切って、鍋のなかに放り込む。
ぐらぐらっときて、ぶつ切りにした長葱を乱暴に投
 げ込む。
沸騰したら、味噌を溶きおろし、火を止める。
たったそれだけで?たっぷり美味しい味噌汁の出来
 上がり!
うーん、今朝も悪くないぞ。


昆布を送ってくれた友人は
北海道の余市郊外の海岸に
自分で建てたドームの家に
独りで住んでいる。
ドームの壁いっぱいの丸窓から
海が水平線ごとすっかり見えるという。


そこで彼は、かつて聖徳太子も愛読したという
サンスクリット語の「竜樹の中論」を読んだり
遠くまで広がる海をぼんやり眺めたり
仕事もせずに
仙人のように暮らしている。


・・・・ふーん、そうか。
その話を、僕は昨年の夏に、上京した彼から聞いた。
とっておきの居酒屋のカウンターで
地酒をちびちびなめ?のんびりと話したっけ。
長髪を後ろで束ね、満身きりりと削ぎ落とし
浅黒く精悍そのものの横顔を見やっては
その向こうはるかに広がる海と
この人の苛烈な生き様を想像したものだ。


それからほどなく、昆布が届いた。
東京の居酒屋の御礼に、とあった。
僕はそいつで毎朝、味噌汁をつくることにした。
毎朝、うーんと感嘆してすすりながら
半年も経った頃、ふと思い出したのだ。


ドームの家って、どんな構造になっているんだい?
竜樹の中論って、どんなことが書いてあるんだい?


急に知りたくなって
僕は手紙に書いて送った。
それからしばらくたって
彼の弟さんから葉書が返って来た。


訃報だった。
            2002、7、1
   徳井一郎に捧ぐ


○彼は「泰山木」の創刊号に「どのようにして仙人となりどのように終わろうとしているのか」という文章を投稿してくれた。それは無理矢理書いてもらったようなものだった。今さら何も書くことはないんだよ。じゃあ、俺にだけ話すような感じで、これまでのことを書いてよ、余はいかに「仙人」となりしかとかさ。
……わかった、じゃ、書いてみるよ。しかし、「終わり」の話は打ち合わせにはなかった。


 
○小樽から鈍行の列車でほんのふた駅目に、彼の住んでいた忍路の駅、蘭島があった。降りた客は僕のほかひとり。運転手が切符を受け取って、すぐ列車は走り去った。ホームにも裸の駅舎にも誰もいない。駅前に小さな無人の広場があるだけで、すぐに札幌と長万部をつなぐ国道に出た。店らしいものはコンビニしかなかったので、おにぎりと水を買って忍路までの道のりを聞いた。歩いたら遠いですよ。海岸にドームの家はまだありますか、徳井という家ですが。ああ、徳井さん、知ってますよ、奥さんと親しかったですから。そうでしたか。でも今は別な人が住んでいるはずです。
そうですか……。

 
○しばらく国道を小樽方面へ進むと、トンネルがあった。その右横にトンネルの上を通って大きく左へ迂回するらしい道が見えた。そこを行った。きつい登り道ではなかったが、汗が噴き出してきた。ゆっくり歩いた。そう言えば、徳井は大股でゆっくりと、弾むような歩き方をしていたなと思い出した。道ばたには芒が群れ、虫の音が小さく聞こえるばかりで、風もなく通る人もクルマさえなかった。道が緩くなったと思ったら、そこが峠だった。途端に前が開けてぱっと海が広がった。急に潮風が匂ってきた。右に、トンネルを出てきたさっきの国道が海岸線に沿ってどこまでも続いていた。左へ、岬へ続く道が下っていた。

 
●「土地がいる。港か入り江のある田舎はないか。高校の地図を広げ目星をつけて5万分の1の地図を取りよせ、ヒッチハイクで現地に行き野宿をしながら歩き回る。紀伊半島伊勢志摩地域、四国土佐市西方、若狭湾一帯、北海道積丹半島。本州の田舎はしがらみがきつい、高価、原発または予定地でダメ。最後に積丹半島つけ根の忍路、オショロ、湾が残る。これが我が永住の地となる。」(「泰山木」創刊号の徳井原稿より)

 
○下って国道へ続く広い道に出たら、前方の海岸線、大きな木の下に、白い丸い屋根が光って見えた。歩いて30 分くらいだった。意外に近く、あっけなかった。

●「1977春・忍路に移住、北斜面宅地150坪。上記ドームを家とする。連れ合いと同居。」場所、小樽駅まで車で10キロ、北大まで50キロ、国道5 号線まで歩5分、買い物は余市町の方が近い。戸数150位の集落の端、崖っ淵、眺め最高、風当たりも最高。小樽港が開けるまでは忍路湾が天然の港。本州の田舎と違い、しがらみがとても少ないのに人がいい。」(同「泰山木」)

 
○ドームの家の周囲は雑草が高く生い茂りアプローチがどこかわかりにくかった。周囲に人の姿が見えなかった。しばらくうろちょろしてようやくドームへの降り道がわかった。草の踏み跡が残っていた。ちょっと見、天文台の様子だった。真白い正二〇面体のドーム。直径はどれくらいあろうか……。案外小さい印象だった。

 
●「1978〜80・9メータードーム建設。これが現在の家である。無常識の家である。原木から材料取りの指定から電気水道工事まで自作。原材料は買うが施工は業者には頼めない。お金がないあるいは業者ができないから。合法性?危険は自分が背負うのだから全部自己責任。その筋から文句がくるまで放っておけ」(同「泰山木」)

 
○正二〇面体のドームは、ジオデシックドームと呼ばれ、アメリカの数学者であり、哲学者、エンジニア、そして建築家でもあったバックミンスター、フラーが考案したという。彼は、正三角形を交互に組むこの正二〇面体が正多面体のなかで最も多くの面を持ち安定していること、そしてこの構造が分子やウイルスなど宇宙で普遍的に見られることに注目し、シナジー幾何学というコンセプトのもとで、これを完成させたという。
○アプローチから小さな橋のようなものが、入り口に続いていた。入り口にはとんがり帽子の形をした小さなドアがついていた。まるで童話の世界に出てくるようなファンタジックなドア。入ってみたい。が、カギがかかっていて入れなかった。覗いても何も見えなかった。いま住んでいる人のメモが携帯電話の番号とともに吊されていた。そこに電話してみた。正三角形の面で切り取られた広い窓から、徳井がいつもそうしていたように外の海の拡がり、水平線を眺めてみたかった。今日戻るのは遅いとのこと。敷地内でいろいろのぞき見してよいかと聞くと、どうぞどうぞの返答だった。
 
○左に回ると、ストーブの薪の倉庫だったのか、雑草の生い茂るなかに小屋があり、さらにもうひとつ小さなドームが建っていた。これも何かの倉庫なのか、観測庫だったりしたのか、その間を雑草を踏み分けて前面の海側へ回った。ドームの土台部分、つまり地下室部分は壁板が剥き出しになって傷んでおり、汚れたガラス窓からうっすらと風呂場や倉庫などが見えた。器用になんでも自作自修したという徳井が使ったのだろう、倉庫にはシャベルだのノコギリだの大工道具や雪かき道具などがたくさんあった。
 
○そこから正面の下にあるはずの海岸は、雑草が高く生い茂って見えなかった。右手には、雑草の合間から小樽へ続く海岸線が遠く見える。ドームの家に添い支えるように、楠のような大木が上に伸びている。見上げると、1階部分の海に向かって正三角形を組み合わせたガラス窓が異形だ。ここからでは内部は望めない。下から、おーい、徳井、いるのかあ? 出てこいよ。思わず呼んでみた。
 
○足下に妙なものを見つけた。三〇センチ四方ほどの陶器の板が地面に埋まっていた。青や緑が入り交じった表面は透明な釉薬が塗られてすべすべしていた。指で泥や雑草をていねいにのぞくと、右下に「徳井一郎1946〜2002」の文字が竹ペンかなにかで削られてあった。傍に線香置きのようなブリキの箱に、花を活けたのか地面に埋め込まれた空き缶。これは、墓碑だ。一瞬、花も線香も用意してこなかったことが悔やまれたが、そんなことにこだわる奴でなし、しばらく手を合わせて心の中でいろいろ語りかけた。
 
○しかし、妙だ。墓碑銘は確かに、見覚えのあるあっさりした徳井の字だ。1946とあるので、彼が早生まれだったと初めて知った。が、2002とあるのはなんだろう。あいつのことだ、きっと自分で自分の墓碑を書いたのだ。死期を理解して受け入れ、その年がまぎれないものと自分で悟り、そして焼いてもらったのか。ここで、「泰山木」に彼が書き、そして今の今まで気になっていたあのことが、強く思い出された。それは僕が予期しなかった、最後の「終わり」についてのくだりである。
 
●「おまけ・ついこないだまで人生50年。とすれば私はもう終わっているはず。今はおまけということになる。おまけはありがたく頂こう。だが、もっとちょうだい、ともがくのは止めよう。こう見切ると一人暮らしは都合がいい。倒れて動けないとき助けはない。孤独死は私にとって理想的だ。運良く意識の時間が残されるなら、思い浮かぶもろもろに感謝をしてこの世を去ろう。」(同「泰山木」)
 
○おい、徳井、おまえはそのとおりにしてしまったな。ちょっとかっこよすぎやしないか。おまえが乗り気でなかった文章を、俺は書かせてしまった。おまえはそのついでに、余計なことまで意識して、決め込んでしまったのではないか。俺は少しばかりそう疑って、いつかここに来てみようと思っていたんだぜ。
 
○そんなことをとりとめもなく思って再び写真を撮った。シャッターを押して、次の被写体へレンズを向けると、倍率が変わってズームイン状態になっていた。持参したデジカメのズーム機能は、カメラ上部の突起を手前に引いて倍率を高めるもので、意識的に指で動かさないと機能しない。おやっと突起を向こうに押してノーマルに戻した。そしてシャッターを押し、ファインダーを覗いたらまた被写体がいっぱいにアップされていた。ふーん、おかしいなとまた突起を戻して気づいた。可笑しくなった。あいつは結構悪戯だった。それきり自動ズームはとまった。
 
○玄関に戻ったら急に腹が減った。脇にあった白樺の大きめな薪を尻に敷いて、コンビニおにぎりをふたつ食べて水を飲んだ。水はもうぬるかった。ではと腰をあげて、ふと道路を見上げたら、少し先の家の軒先に「陶芸」の暖簾が見えた。墓碑はここで焼いたのかもしれないとふと思った。窓越しから覗いたら、さまざまな陶磁器が置かれているが人気はなかった。呼び鈴を二回押した。家の外から御婦人がはーいと走ってきて、中へ招じ入れてくれた。来るときにはまるで気づかなかった。
 
○広いガラス窓から海が広がっていた。ドームの家の徳井さんご存じですよね。ええ、とっても親しかったですよ。やはりと思いつつ、いきさつを話した。品のよい顔立ち、どこか愛嬌さえ感じさせるやさしい表情の奥さんは、しぜんに目を輝かせ嬉しそうに、次々と思い出を語ってくれた。徳井さんはきっと若い頃から意志が強かったんでしょうね、自分で自分の生き方や考え方、そして食べ物の好みまでなんでもきちんと決めて、そのとおりに生きたんだと思います。私たちがここに住んでから23年くらいになりますが、徳井さん一家はもうその前からあのドームで暮らしておられて、ともかくそのころから彼は亡くなるまで、まったく変わらなかったんです。陽に焼けて、痩せてまったく贅肉がない筋肉だけのからだ、後ろで束ねた長い髪、考えることもすることも、着るモノだっていつも同じ、ずっと変わらなかったんです。
 
○それは、たくさんの思い出だった。徳井が、徳井一家がいかに好かれていたかよくわかった。しかし、一人で暮らすようになってだんだん具合が悪くなった。とうとう、よほど苦しかったのか、自分で救急車を呼んで前の奥さんの勤めている病院にひと月ほど入院した。が、どうしても自分の家に帰ると言い張って戻ってしまった。その後は東京から来られた弟さんご夫婦が看病し、数カ月後にドームの家で、彼らに看取られて逝ってしまった。肺ガンにかなり苦しんだ。…… それにしても、弟さんご夫婦がなんとやさしい方たちだったことか、私は本当に心を打たれました。

 
○自分が死んだら葬式も戒名も要らない、段ボール箱にでも詰めて焼却場に引き取ってもらい、骨をドームの家と前の海、自分の畑に撒いてほしい。彼はそう主張するばかりだった。段ボール箱はさておき、骨は実際にそのとおりに撒布された。そして、孤独死ではなかった。僕は、少しほっとした。

 

 
○もう帰らなければならない時間だった。枯れていながら何かを訴えてくるような、備前に似た強靱な皿が目に付いた。なんとはなし徳井の風貌が感じられた。信楽ふうな大きなぐい呑みも気に入った。いつか今日のことを思い出すために、二つを求め、駆け足で窯を見学させてもらい、今度はバスに飛び乗った。海岸線を縫うように走るバスの窓から振り返ったら、あの大木が遠くに見えた。その下のドームは、見えなかった。