友よ!
   
忘れえぬ友がいる
 そしてその友への熱い思いがある
  君への思いを綴る!
 

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永原義郎、遠い青春の面影に
富原無量 


 「二十歳、それが人生の花などとは、誰にも言わせない」
 当時、僕がもっとも愛しんだポール・ニザンの言葉だ。
 
 この言葉に出会ったとき、あまりにも自分の心を言い得ていたので、思わず団地の四階の窓より外を眺め、遠くアフリカの地のランボーに思いを馳せたものだ。そして、二年前のあの出来事を思わずにはいられなかった。
 
 三月十六日、卒業式。それで僕らは皆とお別れした、ハズだった。が、一週間後にまた皆と会うことになろうとは・・・・。その日、僕らはぞろぞろと帰路についた。皆寡黙だった。それぞれの足元だけを見つめ、「あいつは、なぜ死んだんだ?」と自問しながら……。
 
 永原義郎という男は、色白・端正な顔立ちながら、聡明かつ沈着冷静で、何よりも発声に安定感があった。こんな人と一緒に仕事できるなんてと、内心ドキドキしたものだ。彼は編集部で、立高新聞、の編集長をしており、僕は生徒会執行部の末席でうろちょろしていたにすぎなかった。
 はからずも彼が編集部の代表として、僕が執行部の代表として、立高祭パンフの編集・制作を担当することになった。僕は内心をひたかくしにし、初対面の彼に気張って偉そうに、「よろしく!」とあいさつした。なにせこっちは生徒会の代表なのだから。彼は、にっこりと微笑んで実にやさしく、「よろしく」と返した。
 過去のパンフのどれよりも充実した物を作ろうというのが、二人の目標だった。企画・原稿依頼・編集と、誰もいない夏休みの、暑苦しくほこりっぽい教室で、額を突き合わせながら、汗を拭き拭き、かき集めた原稿とひたすら格闘した。原稿に向かう彼の髪の毛がとてもさらさらしているのが、妙に印象的だった。
 校正の段になり、「学校は暑いから、僕のうちに来ないか?」ということで、多摩川を挟んで対岸にあった日野の彼の家に招かれた。スイカを頬張り、ウチワをあおぎながら、校正作業をし、そして、陽も落ちかけた縁側で、彼の夢を聞かされた。
 彼の夢は、「検事」だった。が、それは、誠実温厚な彼のイメージとあまりにも違和感があった。「検事?!」と思わず聞き返してしまった。「どうして判事じゃなくて、検事なの?」。その時初めて、彼が類まれなる、過激な正義感、の持ち主であることを知った。ただ正義をするだけなら判事で十分なのに、彼の心には、不正義を許さず追及することに、おおいなる意義があったようだ。
 立高祭が終わり、僕らは皆日常に戻っていった。そこには、「受験」という逃れられない現実が待っていた。活動中も勉強を怠らなかった永原は、東大を目指し、僕はといえば、三二七番ゆえの、国公立はどこも無理だね、という死刑宣告の中で、絶望的な日々を送ることを余儀なくされた。いつしか交流も途絶えた。
 
 そして、あの日の出来事である。彼は机に正座し、持ち前の沈着冷静さで、心臓の位置を確かめ、ただの一突きで自分を仕留めた。心臓に突き刺したナイフを握ったまま机にうつ伏し、永遠の眠りについた。その姿が、お父上の目には、「勉強して、そのまま机に眠っている」と映ったということだった。
 彼が東大を目指したのには理由があった。それは、検事になるためだけではなかった。また、どうしても「現役」でなければならなかった。そうでなければ、東大を落ちただけで死を選ぶ動機にはなりえない。彼は絶望したわけでもなかった。そもそも、絶望感、に打ちひしがれた者が心臓を一突きという過激な方法をとるとも思えない。かえってそこには、強い意志さえ感じられた。合格発表のその夜ゆえに「衝動的自殺」とも考えられたが、沈着冷静な彼に限ってありえないことだ。あるいは恋愛的な動機でもあったのか? と考えもした。
 僕は迷路に入り込んでしまった。未来に志を持った若者が、死をもってしてまでも清算しなければならなかったものとは何だったのか? その時ナイフを見つめながら、何を考え、何に思いをいたしていたのか? かつて隣にいた人が、である。
 受験期という差し迫った状況を前にして、当時の僕らは、否応なしに決断を迫られた。北大や京大をめざした浪漫派、一橋や東工大を選択した現実派、これに対して、何が何でも東大という連中は意志派という形容がピッタリだ。僕のような落ちこぼれには、もちろんどれも選択の権利はなかったが、「意志派」に対する羨望の気持ちだけはあった。
 もちろん東大に限らずどの大学でも、目指す大学をひとつに絞った連中は皆、意志派、といえたが、東大意志派は格別の存在であった。とりわけ一年の時から「何が何でも東大」という一直線派は、異色の意志努力集団であった。「ガリ勉」と揶揄されようと意に介さないだけの強い意志を持っていた。
 永原もまた、一直線派同様、まぎれもなく「意志派」であった。あのツァラトゥストラが高みに登ろうとしたごとく、最上階を目指したのだ。が、永原にとって、彼らはいわば、まともに四二・一九五キロという高校生活を走らず、勉強ばかりしてゴールしようとしているずるい連中だった。彼にはそれが許せなかった。それは激しい敵愾心にまで昇華されていたといってよい。
 不正義の彼らを検事席から追及するためにも、決して負けるわけにはいかない。彼らは東大に現役合格するだろう。だから自分にとっても、「東大現役合格」は至上命題なのだ、と。
 三月二十一日、掲示板に自分の名前はなかった。が、それ以上に、彼らの合格は衝撃であった。「あいつらが受かって、自分が落ちた」という現実は、すなわち自分の敗北であった。東大が重要なのではなく、「不正義」に敗北したことが、永原にとっては全てであった。
 永原は彼らを許せなかった。「自分が落ち、彼らが受かった」という現実をどうしても許容できなかった。いや、いや、そうではない。このような事態を招いた自分が許せなかった。真犯人は彼らではなく、実は自分ではないのか? 検事永原は、被告人永原を断罪していった。その憤りをそのまま心の臓に向けていった。
 これは、僕の一方的な解釈である。そう、僕は、自分なりの勝手な解釈をしてまでも、この問題に決着をつけなければならなかった。そうしなければ、前に進めないような気がしていた。
 「意志もまた」一つの孤独である、とカミュは言ったが、その言葉の本当の意味がわかったのは、自分が無理やり「意志派」に入り込んでいってからである。
 若かった僕は、彼の心を十分に理解しないまま、永原の代わりに、いや、「永原の無意味な死」への強い否定衝動からといってよいかもしれない、不遜にも、四二・一九五キロを完走した自分こそが、「東大に合格してやる」と使命感に燃えて、付き合い始めたガールフレンドへの未練も、何もかも断ち切って、浪人生活へと突き進んでいった。それは、ドン・キホーテのように気高く無謀な、悲壮な決意であった。そうすることだけが、「永原の死」を克服する唯一の方法であるかのように、自分に言い聞かせながら……。
 そうです。永原にとっても、一直線派の人たちにとっても、僕にとっても、青春とは決して、人生の花、などではなかった。蝶などどこにも飛んでいなかった。暗雲立ち込める激流を筏で格闘するようなものだった。でも、それは、とてもいとおしい青春の一ページでもあった。
 永原! 君にとって、青春とは、十八歳とは、どんなだったんだい? あれでよかったのか? それとも、もっと生きてみたかったのか?
 
  十八の姿そのまま目に浮かぶ
  われ還暦を迎えし朝に
 
 君がライバル心を燃やした人たちも、君が想いを寄せたかもしれない人も、そして無量君も、みんな還暦を迎えてしまった。なのに、君はいつまでも学生服を着たままだね。
 
  夕日落ち多摩の川面にゆらゆらと
  燈籠あかく君がもとへと
 
 君はもしかしたら、立高とご自宅が見える多摩川あたりで蛍になってさまよっていやしないか? 僕は遠くてなかなか行けないけれど、心の中で燈籠を流しましょう。志半ばで逝った人、苦難の道のりの果てに逝った人、多くの仲間が蛍になりました。みんなのもとへ燈籠が届くといいですね。君が上手にみんなのところへ運んでおくれ。
 
(追)書き終えて今。二か月かけてようやく書き終えました。途中何度も諦めかけ、また筆を起こし、多くの人に励まされ、叱咤され、八月のお盆に燈籠を流せて本当によかった。とりわけ、東大を目指し武運つたなく断念し、栄光の果てにまた挫折した、今は亡き君にはとても励まされました。永原と一緒に、あの世でいつも僕らを見守っていて下さい。