特別寄稿
  忘れえぬこと、
 忘れえぬ人
 倉員保海 
(社会科担当恩師)

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1 私と多摩地区
 
 昭和三十二年、私は突然に何も知らない立高に赴任したが、案外に数人の知人から多くを教わった。大学同期の真上氏、増田氏、軍隊同期の根本氏は府立二中の出身、異色の田淵画伯は二中から中途転出、また元飛行将校で戦後大学に入学した寺島氏から戦時中の立川基地の話を聞いた。赴任早々から地歴部顧問を仰せ付かったので、夏休みには各地の宿泊調査に精を出した。
 まず北桧原、次いで南桧原、恩方、五日市、奥多摩、多摩等。奥多摩は小河内ダム完成の直前、奥多摩に行った年は大渇水で、完成直後のダムの底が見えた。戦後奥多摩に「解放区」を夢みた集団が現地を騒がせた事件があり、地歴部の調査もその残党かと疑われて迷惑した。この「山村工作隊」は後に党から除名された。
 多摩ではニュータウン建設直前で、関戸から南進する鎌倉道の峠の北麓に茶屋があり、峠の上からは南の小野路方面がよく見えた。
 恩方道では叶谷西蓮寺を直角に曲がる狭い十字路を、女性車掌の笛の合図で何度かの前進後退で通過したが、現在は西側に新道ができている。五日市の手前の伊奈には、道の中央に水が流れる、古い市場が残っていた。
 多くの人達からお世話を頂いたが、特に恩方の菱山栄一氏と多摩の富沢政金氏のお二人を明記して謹んで御礼を申し上げたい。
 
2 病気
 五十過ぎから時折胸が閉めつけられるような痛みが起ったが、定期健診で清瀬の結核研究所病院に呼ばれ、中年発病の珍しい肺結核と宣告された。主治医は結核の専門医で自ら開発された新療法によれば、通説の二倍の薬を投与して一気に進行を止めると言うもの。古来結核は多くの英才の命を奪ったが、私如き凡才がその仲間入りの資格はなかろうとひたすら先生に従い全快、退職した。医学の分野では、主宰者自身が結果を判定するようだが、以後の検診でも影の拡大は見られず、この療法は成功したのだろう。
 七年前に心房細動が激しくなり、半年後にいきなり前立腺肥大を発症した。前者は薬で進行を止め、後者は下腹部を切開手術した。手術に必要な血液は予め自血を採り他人の献血は使わない、この荒業では血友病やエイズの心配はない代わり、完全な回復には一月半も長引いた。同時期に美術の原田博介先生が病状悪化し、ご逝去、私は生き残り、知らせを聞いて暗然とした。
 
3 革命と独裁者
 革命の先頭で奮闘努力の「英雄」はBクラス革命家で、最高指導者は「領導」と呼ぶ、と中国語教師から教わった。隣国の毛沢東が英雄的革命家を次々に粛正して独裁化した時期、自ら黄河流域の総合調査を推進した報告には、水源近くの二つの湖、(上流のザーリン、下流のオーリン湖)名を逆記(上流をオーリン、下流をザーリン)して刊行された。文革期に限った「地歴的」な誤記で、この『黄河流域を行く』(北京外交出版社刊)を私の手元に保存している。
 文化大革命期には、我々も、全共闘勢力への工作、中国史学系(文革否定)、中国文学系(肯定)の分裂等の損害を受けた。毛主席死去直後、国際政治学者I氏は、今後実務派と文革派の勢力均衡の上に、徐々に、近代化が進むとの予測を発表したが見事に外れ、ケ小平派は「一挙に」四人組を一掃した。将来の予測などは学者よりもジャーナリストの仕事かもしれない。文革中に追放、獄死した劉少奇の名誉は回復されたのか、と私は「世界史事典」執筆当時、中国大使館に問い合わせたが、明確な回答を頂けなかった。やむなく独断で「回復された」と記したが、改訂版の年にはその通りになっていた。
 


「還暦記念号」の原稿を募集しましたところ、思いもかけず、恩師の倉員保海先生も原稿をお送りくださいました。先生は世界史と日本史をご担当なさり、独特の語り口で授業を展開なさいました。
 あの三年間を共有していらっしゃる先生の思い出として、ここに掲載させていただきました。
(お写真は「卒業アルバム」より)