還暦つれづれ
  
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私たちの旅路
 
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第二の人生を
ファイナンシャルプランナーとして
13 菅野和雄 
 今年の12月25日に60歳になります。これを機会に今働いている会社を辞めて、第二の人生をファイナンシャルプランナーとしてスタートするために、今資格取得のための受験勉強に励んでいるところです。
 人生60年を思い返すと、立川高校を卒業し、早稲田大学に入学し、卒業と同時にクボタに入社し、57歳で退職するまでの35年間の大半を経理、資金、財務、IRの仕事に従事し、平凡なサラリーマン生活で終わるのかなと思っていましたが、最後にドラマが待っていました。 ニューヨーク・テロのあった2001年9月11日の翌日に会社から子会社に出向しないかとの打診があり、当時、会社の業績が大変悪く、高給取りがいつまでも会社に残って、若い人が力を発揮する場を奪ってもいけないなと思い、子会社への出向を承諾しました。
 それがドラマの始まりでした。 2001年10月1日付けで子会社に出向すると、当然自分は役員になれると思っていたところ、その子会社の社長に反対され、総務部長にしかなれず、そのうえ、自分の上に社長以下三人の役員がおり、この三人と全く性格が合わず、憂鬱な毎日を送っていました。
 立場上、いやな上司でも言われたことには、くだらない命令でも、従わなくてはならず、その上、いちいち報告をしなくてはならない。その上その子会社の業績は悪く、日を追うごとに悪化してゆきました。
 翌2002年7月、とうとう人員整理をやることになり、総務部長として首切りに立ち会えとの命令があり、立ち会うと、社長以下三人の人員整理のやり方が、自分達の気に入らない人から首を切るというやり方でした。
 自分は、このやり方にどうしても我慢がならず、堪忍袋の緒が切れて、けつをまくって、就業時間中にもかかわらず、自分は鬱病だからこれ以上仕事はできませんと言って、自分の家に帰ってしまいました。
 それ以来、子会社には、一切出社せず、家に閉じこもっていました。
 その間に、鬱病の状態は、ますます悪化し、自殺を考えるようになりました。 実際にネクタイで首を絞めたり、高層マンションの非常階段の最上階に行きそこから飛び降りようとも何回も試みましたが、最後の勇気が出ず、自分は死にたくても、死ぬこともできない、なにをやってもダメな男だと落ち込んでいました。
 親会社のクボタの人も心配して、自宅に見舞いに何回か来てくれましたが、気分は鬱の状態が続いていました。
 その間に親会社のクボタも談合事件の影響で業績が悪く、第二次リストラをやるということになりました。自分としては、鬱病の状態で、親会社に籍はありましたが、一度も出社せず、会社にこれ以上迷惑をかけるのは心苦しく思っていたので、渡りに船の状態で、リストラに応じることにしました。
 そしてその翌年の2003年3月31日付けでクボタを早期退職しました。 その後一年を雇用保険でくいつなぎ、2004年9月より現在のオーケー株式会社に勤務して、慣れない肉体労働に従事しています。
 この肉体労働が良かったのかわかりませんが、徐々に鬱状態が弱まり、日本経済が良くなりだすとともに、鬱病が回復していきました。
 そうなると、意欲もだんだんと出てくるようになり、退職金の運用も自分の経験を活かして、増やすことができるようになりました。そうなると、自信も回復しだして、60歳からの自分の人生をどう生きようかと考えることになり、自分の長い経歴と経験を活かして楽しくやれる仕事は、ファイナンシャルプランナーだと確信がもてるようになりました。
 自分は、一度死に損なって、生まれ変わったのだと考えるようになり、考え方も、前向きになり、性格ももともとは弱気だったのが、今ではすっかり強気になりました。
 人間は、一度極限状態を経験すると性格も考え方も変わることができるのかと、自分が自分で不思議でなりません。
 そんなわけで、これからの人生は、自分の経験を活かせるファイナンシャルプランナーとして、主に、自分と同じ退職者を相手に、第二の人生のライフプランの作成のお手伝いができたら良いなと考えています。