還暦つれづれ
  
一巡りして 396とおりの新たな出立
夢があり希望があり 次世代への思いがある
新しい泰山木の生長とともに始まる
私たちの旅路
 
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想えば遠くに来たもんだ……
16 北村元宏 
 華甲同期会でデジカメのファインダーを覗きながら、考えた。
 
 顔はわかるが、名前が思い出せない。顔も名前も思い出せない。立高時代のあの時に自分は何を感じ、何を話していたのだろうか?
 
 グラスを片手に笑顔で談笑している人、料理をパクつく人、隣の人と話す人、パライソや秋山さんのメロディーにリズムを取りながら、うっとりと聞き入る人。恩師のお話に、頷きながら真剣に耳を傾ける人。
 
 どの顔も、姿・形は在校生の頃とは変貌しているが(人それぞれにその程度は違う)その「目の輝き」は、まぎれもなく、立高生。
 
 デジャヴュー=c…。ふと思いついた言葉。この風景はどこかで見た記憶。懐かしい、ほろ苦い記憶。不思議な感覚……。
 
 編集部、執行部、水泳部、合唱コンクール、演劇コンクール、体育祭、キャンプファイアー、仮装行列、交換留学生、清明寮での遠泳、ふんどしの水泳授業、数学の授業、京都への修学旅行等々。
 
 立高の三年間とは、自分にとって何だったのだろうか。60年の人生のなかで、瞬く間に過ぎ去った過去。だが確かにその時に存在し、何かを主張していた自分。自分なりに輝いていたことは確かだが。
 
 思い出せない。泰山木の記事の中には、立高時代の思い出を、その場の情景、会話など実に細かく、生き生きと描写されているのに。僕にはどうしても思い出せない。
 
 物の本で読んだところでは、人間の記憶には三種類あるとのこと。
1 感覚記憶──ほんの一瞬だけの記憶。例えば雑踏を歩いていて、次々とすれ違う人の顔。すぐに忘れてしまう。
2 短期記憶──10秒ぐらいの短い記憶。電話番号のように必要がある時は、ある程度の期間覚えているが、忘れた時はアドレス帳等で確認する。
3 長期記憶──その時点でインパクトのあった記憶。覚えていてはすぐに忘れ、また思い出してはすぐに忘れる。繰り返しているうちに、あるイメージとして記憶に残る。
 
 記憶の7〜8割は急激に忘れ去られ、残った記憶のうち、つらい苦しい記憶と、楽しかった記憶が残り、特に楽しかった記憶は、自分の中で勝手に成長し、イメージとして残り、忘れない。大方の人の記憶のプロセスだそうだが。
 
 生来、物事を深く掘り下げて考えることが苦手。走りながら考え、競馬馬のごとく、前しか見ていない自分。通り過ぎた過去のこと、他の人達は都合の悪い過去はすぐに忘れ、楽しい過去はかなり詳しく憶えているのが通例だそうだが、その楽しいことすら、忘却の彼方。うっすらとしか憶えていない。、自己嫌悪……、
 
 「ま〜いいか。ままよ」これからも今まで通り、自分流で生きて行くしかないのだ。
 
 人は還暦を迎えると、第二の人生とかいうそうだが、60歳は59歳の次の歳で、61歳の前の歳にしか過ぎない。いわば人生の通過点だ。
 
 だが何の間違いか、例によって何の考えもなく、「魔が差して」ふと思いついて参加した立高同期会、『泰山木』の編集への関わりは、そんな単なる通過点の中で、否が応でも過去を振り返らざるを得ない、いわば貴重な時間(身勝手……)。

 会社人間で日々の糧を得るために、過去に思い巡らすことなく、アクセク働かざるを得なかったというのは「言い訳」にしか過ぎないのだろうが、その会社からも見放され、スケジュール帳を見ながら、空白の多さに愕然とする自分。
 
 華甲同期会の「396とおりの出立」の看板は、そんな自分へのエールだ。立高同期会、『泰山木』の編集を「第二の立高」時代の到来と勝手に解釈し、「新たなる自分探しの旅」に旅立とう。