還暦つれづれ
  
一巡りして 396とおりの新たな出立
夢があり希望があり 次世代への思いがある
新しい泰山木の生長とともに始まる
私たちの旅路
 
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還暦を迎えて─ 伝えたいもの
18 山岸忠雄 
 私が伝えたいものは何か? 経済学? 30年間も教えてきたからいいかな……本当は、まだまだやらねば…… いや、むしろ今が一番教えなければいけない時なのかもしれない。まあ、それは、暇なときに時々教えればよい。経済学や経済よりももっと大事なものが……?
 そう、平和の喜び、命の大切さを伝え実践したいと思う。毎年、終戦の(昔は、敗戦と言ったと思う)8月15日が近づくと新聞に「終戦後……年」という見出しが大きな字で躍っている。「ああ、俺の年も……歳になるのか……」と自分の年齢を思い出すまでもなく、新聞の見出しが教えてくれる。とうとう今年は、終戦後60年、の文字が、今まで以上に大きな見出しで、新聞だけでなく、週刊誌や月刊誌、さらには、TV 番組などにも躍っている。
 そうなんだ!! われわれは、敗戦の、あの年に生まれたのだ。母からいろいろな話をずいぶんと聞いた。8月15日の敗戦の日の後に朝鮮半島の38度線近くにいた母たち(父は衛生兵として京城にいて不在)は、下関目指して近所の日本人家族と一緒に引き揚げてきた。普通なら一日二日で着くのに、朝鮮人の船頭はあっちこっちの港に立ち寄っては酒を飲んでなかなか船を出さないので、二週間もかかったという。私は10月生まれだから、母のお腹の中にいたことになる。2歳9か月の兄貴の手を引き、1歳の姉(1946年2月死亡)をおんぶして、女一人でやっと日本(内地)に帰ってきた。 財布の中には、いざという時のために青酸カリを入れていたという(父が薬剤師なので青酸カリを手に入れることができたようだ)。母がいつも言っていた、「当時の苦労を思えば、どんなことでも耐えられる」と……。
 そう、われわれ1945年生まれは「死んでいてもおかしくない、生きていることが奇跡なくらい」である。われわれは、「戦禍の子」なのだということを感じざるを得ない。
 この1945年の敗戦後にも、中東戦争、コンゴ紛争、ヴェトナム戦争、アフガニスタン紛争、湾岸戦争、旧ユーゴ紛争、そして、今進行中のイラク戦争(?)と地球上のあっちこっちで戦闘、戦争が起こり、大量殺戮が行われている。「実に、愚かしいことだ!! 悲しいことだ!!」
 
 そう「自分は、戦争を行う人になってはいけない!!」
「戦争を行うような世の中にしてはいけない!!」ということを行動で示したいと思う。それが、1945年生まれの自分の責務であるような気がする。地球市民の一人として、共存共生を目指してグローバルに平和教育、環境教育、そして、開発教育、経済教育、に何らかの形で係わって行きたいと思う。