還暦つれづれ
  
一巡りして 396とおりの新たな出立
夢があり希望があり 次世代への思いがある
新しい泰山木の生長とともに始まる
私たちの旅路
 
to index
 
わが人生に悔いなし─奮闘記
24 弓削文隆 
 さーて、何を書こうかな。
 
 我が社(Honda)の定年退職日は誕生日の翌日である。従って未だ還暦までは間がある。そこで、手始めに、回顧録でも考えるとするか、で始めてみようと思う。
 
 学園闘争の最中、「学歴無用のホンダ」に入社、希望に満ちた船出。入社先は狭山工場で、N360の製造をしていた。オイルショックとやらで、プラスチックの原材料が高騰する中で廃材をどう使用するか検討している間に収まりほっとしたのも束の間、欠陥車問題で大揺れに揺れ、心機一転、新車攻勢で切り抜けていた。
 工場の業務は組立職工から、工務課の計画業務に変わって、結婚と同時に本社の海外二輪車開発営業部隊に移動し、二輪業界の代表としてしばしば、役職のない名刺で、自工会の輸出二輪部会で他社の部長様と、世界の二輪車市場を論じていた。HY戦争が始まり、と同時に日本対米国で為替戦国時代、コストとは何かを考えさせられた時代、何とか、切り抜けたが、三ナイ運動には悩まされた。二輪の大きな市場は海外へと移行して行った(現在の四輪の市場も同様である)。「世界二輪車概況」を創刊し、二輪車のCIである羽根マークを統一し、OA化の先陣を海外の部門で推進し、平成と時を同じくして四輪部門に移り、販社でCS(お客様満足度)アップの仕事をし、本社に戻り、自動車電話から携帯電話の移行期、販社での携帯電話販売網の構築を行った。携帯電話が14万円する時代であった。
 家族全員で憧れのハワイで一泳ぎ、なんとか世間並
みにはなったか。
 法人営業部で、盛岡、東京、福岡(25年勤続記念夫婦旅行でイタリアを観光、絆を深め)と他業界・官公庁(入札)に環境で優れた車を販売し、関東営業部に移り、フィールド営業から販社臨店指導と様々な職場を経験したと、今振り返っている。
 これから先は、その時その時一歩一歩であると思いつつ、やりたいことをやり、したいことを、する。一次産業から三次産業まで世界は広く、定年後ひと呼吸おいて、考えよう。世界を旅行し、晴耕雨読ならぬ晴遊雨休と人生を有意義にしたいと念願する次第である。