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卒寿と還暦 |
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25 藤田宜正 |
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僕は今、父に「辞世の句」をひねっておくように勧めている。
それは一つに父は今年九十歳になるのだが、ある川柳クラブに属しており、毎月投句しているようだからである。死に及んで一句をものすなどというのは、その期において尚意識が明晰でなくてはかなわぬことであるし、なによりも常の日々にあって、いつかくるその時を覚悟して推敲をかさねていなくては為し得ぬことだと思われるからである。
二つにそれは父が献体登録者であることによる。ご存知のように献体された遺体は数年保存されることになるのだが、なまじ自分の遺体がそこにありつづけるがために、死者の霊のなかには自分の身体に執着するあまり浮遊霊となり、遺体のあたりをはなれられずにいつづける者もいるというのである。また時には自分が死んだことがわからず、誰彼に話しかけるのだが気がついてもらえないため困惑している霊もいるとのことである。
僕にはそのような能力はないのだが、僕と明恵さんの親しい友人には私たちには見えない存在が視える人が何人かいて、一様に父の「死後」を案じてくれているのである。 父は東洋史、中でも現代中国史の研究者として生きてきた。自分をマルクス主義者とはいわないが唯物史観に立つ研究者だという。したがって父は自我も意識も感情も脳という肉体組織の結果であり、「死」は「存在」から「非存在」への移行と考えている。そう考えていた人が死後陥るかもしれぬ混乱を心配してくれるのである。
そうはいっても、よほどのことがないかぎり誰にも守護霊がついているのだから、早晩「お迎え」に来てくれるだろうし、その後の世界への水先案内もしてくれるであろうから、あまり心配はしていない。要は父に「死」と「死後生」、殊に後者の有りや無しやを一句をひねりながら考えてもらいたいのである。生前に多少なりとも想像力を働かせておいてくれれば、幽霊親父の徘徊を避けられるかなという老婆心でもある。
ことほど左様に僕は依光くんにいわれるとおりのおせっかいな性格だが、しかし今更どうなるものでもない。
そして30歳も年上の父母と暮らしていると60歳などまだまだ若造なのであって、こうしてパソコンに向かっていても、背中を丸めないようにしなさいよ、などといわれる始末である。
さて、最近の父の一句
享年をまず見てあと読む訃報欄
これはこれでおもしろい。だが、辞世の句、にはなってない。
まだまだである。
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