還暦つれづれ
  
一巡りして 396とおりの新たな出立
夢があり希望があり 次世代への思いがある
新しい泰山木の生長とともに始まる
私たちの旅路
 
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ターニングポイント
26 庄司結美子 (旧姓・浜みつひ)
 「試験の場所ここでいいんですよね?」
 背後からの男子学生の一言。
 「ええ」と私。
 入社試験会場とされた会議室の末席に座っていた私を、彼は女子社員と間違えたのだ。
 何故間違えたかって……?
 そこの会社では編集部員として男性しか募集していなかったから……。
 
 人生にはいくつかのターニングポイントが存在する。
 
 立高卒業後、W大の心理学に進みその後、某出版社に就職した私にとって、進学・就職はやはり大きな転換点であった。特に就職は、長いプレッシャーからの解放であり、一つの確かな勝利であったと思う。
 当時、国立大を目指し挫折して、私大に進んだ女子学生の多くは、「大学で学んだことを社会に還元しなくては!」という思いを半ば強迫的に義務感としてもっていたから……。何とまあ窮屈な! と今になれば思う。が、当時は二十歳そこそこの学生でも、男女を問わず、真剣に社会と向き合おうとしていた……。
 エネルギーに溢れた時代、正しく青春であった。が、そういう社会的・外面的分岐点よりも、精神的・内面的なそれのほうが意味が大きい事を、後になるほど感じないわけにはいかない。
 それは二十代半ば、オハダの曲がり角(?)の頃やって来た。
 二十代半ば? もしかして結婚?(残念ながらNO!)
 それは、人間を一つのブラックボックスと見る、当時の心理学的視点から、一人の人間の、主体性と変革への可能性を無限に信ずる視点への、人間観の転換であった。
 その後、三十路近くになったある時、幼児向けの紙芝居を手伝う事になる。題名は「鳩を助けた尸毘(しび)王」(お釈迦様の前世の修行時代の物語とされている)。学生さんの一人が、オリジナルと見紛うほど美しい絵を描き、私がナレーションを担当した。一人の学生さんが解説を書いてくれた。
 その中に、「釈迦の悟りは縁起観であり、それは万物が連関して生ずる事の直覚であった」との一文があった。「生ある存在は全て関係している」との考えは、紙芝居の企画の面白さと共に、私の中に新鮮な感動を残した。
 (その後種々あったが)私も一児の母親となる。息子は幼少時から明るく活発で、子育ては新鮮な驚きと、忙しい楽しさとがないまぜになった毎日であったと言える。比較的単調だった私の生活に、彼は多くの彩りを添えてくれた。
 長じた彼とは、宗教の深遠さ、心理学の限界、時にはカミオカンデ等と話題に事欠かない。
 先日、個人主義について話が及んだ。私は他者の人生への関わりすぎは、両者共に煩わしさ以外の何ものでもないとずっと感じていたのであるが……。そういった強い自我意識を基とする人間関係は、彼によるとどうも人間本来の温かいつながり方から外れたものらしい……。
 考えてみれば、二十代半ば大した使命感も、無論覚悟もなく選んだこの道であったけれど、実に多くの内面的豊かさを私に運んできてくれた。
 目のさめるような美しい笑顔の友。子宝というけれど本当に私にとって宝である子供。そして、何よりも前向きという言葉で表現しきれないほど強靭な生き方への指針。そして人間観も。
 「一人の人間が変わることによって、社会を変えることが可能である」とする思想は、人間への限りない信頼感に満ちている。だから、他者との積極的関わりを必要最小限にしようとする西欧的個人主義は、心の扉と、対話とを半ば閉ざしかねないのであろう。知らぬ間に、子供のほうが成長しているのに驚きと嬉しさを覚える。
 ところで、尸毘王の物語は、鳩一羽の生命と王の命とが一台の秤の上でつり合うという情景をもって、生命の平等性を劇的に示している。そして、飢えた鷹を救い鳩を救うため、生命を投げ出したその瞬間、鳩の姿を借りた帝釈天より王は元の姿に戻され、その慈悲深さを、周囲の生あるもの全てから賛嘆されるという形で幕を閉じる。
 仏法の本質は慈悲であり、それはその体現者となって行動するとき、成仏の道が開けることをこの物語は示していると思う。
 
 これまで少し廻り道をしたときもあったけれど、これからも私はこの道を一生歩いていくと思う。人間関係も含めて、周囲の景色は少しずつ変化していくかもしれない。が、自分が輝けば、周囲も草も花も全てが輝いていくという指針を信じ、地道に忍耐強く歩いていきたい。この道が正義の道である限り、勝利の道、幸福の道であることを確信して……。
 
 (拙い私の文と一緒に載せていただくのは申し訳ない気が致しますが、最後に尊敬してやまない指導者の方の箴言を、感謝の念を込めて掲載させていただきたいと思います)
 人間は「真理」を求めて旅をしなければならない。その「真理」とは、実は、困っている人、弱い立場の人を助ける「慈愛の行動」のなかにある。高尚な「知識」のなかにあるのではない。どんなに知識があっても、観念の遊戯や、民衆への軽蔑があるならば、その人は「真理」から一番遠いところにいるのです。
 「人間への不信」は、自己に向けられれば無力感となり、他者に向けられれば対話の拒否となり、暴力となる。不信は不信を生み、憎悪は憎悪を生む。限りなき流転に歯止めをかけるものは、一体、何か。それこそ「一人の人間の生命は、大宇宙と一体の広がりをもち、最高に尊貴なものである」と見る「宇宙的ヒューマニズム」であると思う。
 万物は互いに関係し合い、依存し合いながら、一つのコスモス(宇宙)を形成し、流転していく−− こうした世界観に根差した[寛容の精神]であってこそ、[文明の対決]をも乗り越え、真の[人間共和]の世界を築いていくことができる、[共生の哲学]の内実たりうるのではないかと考えます。(池田大作著、箴言集 四季の語らい、聖教新聞社刊)