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 海津正彦さんが登山家だとは聞いていたが、ヒマラヤで初登頂の経験もある本格的なクライマーだということ、そしてインターネットで調べただけで20冊以上の訳書が検出できる実績豊富な翻訳家だということは知りませんでした。岩壁登攀を中心とした山岳物の翻訳が多いようですが、それにとどまらず冒険物も、舞台も山だけでなく海や砂漠にまで及び、その活動範囲は広がっているようです。今回、泰山木編集委員より訳書の紹介をお引き受けしたのでその中から3冊を読みました。
 最初に読んだのが『脱出記』。作者であるスラヴォミール・ラウィツはポーランドの騎兵将校であった1938年ソ連支配下の祖国でソ連秘密警察により捕われ無実の罪で強制労働25年の判決を受けシベリアの強制収容所に送られた。歴史的にはソ連のポーランド圧迫はこの後も続き、ドイツのポーランド侵攻時にはソ連はポーランド軍将校・知識人等8000人を虐殺(カチンの森事件)、残った将兵のシベリア抑留とポーランド弱体化を進め、戦後のポーランド衛星国化の布石とする。さて、たまの停車時以外は満員の貨車で立ったままで鉄道輸送され、糞尿も垂れ流し、食料は日に400グラムのパンのみで4800キロの距離を一月かけシベリア北東部に到着、さらに最後の徒歩行進にも耐え抜いて収容所にたどり着いた主人公。彼はその後数人の仲間を募り収容所から脱走。水・食料 ・装備もなく徒歩で厳冬のシベリアを縦断、モンゴル草原を渡り、灼熱のゴビ砂漠を踏破、ヒマラヤを越え、途中仲間を失いながらもついに大英帝国領インドに到達。本当に人間はかように過酷な条件下で生き延びられるのかと疑問すら抱く。でもこれは本人が記したノンフィクションなのです。
 二冊目は英国スパイ・冒険小説作家の大御所ボブ・ラングレーの『北壁の死闘』。三冊目はジェニファー・ジョーダン著『K2 非情の頂』、原書副題には「世界で最も恐れられる山 ”K2” に登頂した女性5人の真実の物語」とあるそうです。どの本にも共通するのは、登場人物の目的達成への不屈の闘志と生きることを諦めない強い意志、それを嘲笑うかのごとき自然の猛威。各本の内容やその素晴らしさを短く的確に纏めてあるのは実は海津さん本人の訳者あとがき。三冊のなかで一番一気に読んだ『北壁の死闘』についてその訳者あとがきも参考にしながらご紹介しましょう。
 この本は第六回日本冒険小説協会大賞受賞作。ストーリー展開も巧みで読み出したら途中で止められなくなります。また、クライマックスはアイガー北壁登攀でその登攀描写も詳しく山岳小説としても読みごたえ十分。スイスでユングフラウヨッホ登山鉄道乗車経験のある方はご存知でしょうが、殆どトンネルで登山するこの鉄道のそのトンネルは隣のアイガーの山中を貫通、トンネル掘削時に作られた横穴がアイガー北壁に開口。物語は第二次大戦末期ナチスドイツ軍の一戦車兵が戦地からドイツに戻され各地から集められた者たちと共に過酷な岩壁登攀の訓練を受けそのクライマー隊の隊長とされます。集められたのは優秀なクライマーばかり。その一人、ナチス党員で糖尿病専門医は、その仮面の下で実はパリで英国のスパイとして反ナチ活動をしていた美人女医。クライマー隊の目的は中立国スイスのユングフラウヨッホ山頂の放射線秘密研究所で米国の原爆完成のために研究をしている天才科学者で重度糖尿病患者のドイツへの拉致。その頭脳がドイツの原爆の完成に必要なのです。それを阻止しようとする米軍部隊、建前は中立だがユングフラウヨッホ山頂施設を米国に提供の事実が表に出ては困るスイス政府も絡み秘密裏の戦いは進む。山頂の研究所を襲撃し科学者を確保したが逃げ場を失ったドイツ側はユングフラウヨッホ登山鉄道のトンネル内を下り途中の開口部からアイガー北壁に出て、山裾の敵軍を避け何と嵐のアイガー北壁を登攀し頂上を目指す。このクライマックスを書きたいけれどグッと我慢。登攀場面の描写が実に素晴らしい。
 訳者あとがきで海津さんは次のように述べている。「この小説では冒頭から岩壁登攀のシーンがふんだんに出てくる。それがいちいち正確で迫力があり、訳していて実に痛快だった。というのは、私も以前、岩壁登攀に入れ上げていた時期があり??翻訳を始めるきっかけも海外登山のための文献渉猟だったくらいで??常づね、小説やドラマに現れる登攀シーンの不正確さに腹立ちを感じていたからだ」。正にこの本は訳者に人を得て日本の山岳小説、冒険小説愛好家に提供されたといっても過言ではなかろう。
 この本の最後に「アームチェア・クライマー、アイガー北壁を読む」との書評が載っているが、山岳小説の面白さを知ってしまった私もこのアームチェア・ディテクティブならぬアームチェア・クライマー、いや私の場合は通勤電車クライマーになってしまいそう。
左より『脱出記』『K2 非情の頂』『北壁の死闘』