特別寄稿

福地温泉と福地山登山の旅 私記


中込 (高瀬)三彌子

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 中央自動車道を松本インターで下りると、バスは奥飛騨へと向かって走り続けました。道はしだいに山に挟まれバスの窓から見上げる山々は、木々の葉を赤や黄色に染めて私たちを迎えてくれたのです。そしてその日、空は真っ青に晴れていました。
 福地温泉と福地山登山の旅を計画してくれたのは内田泰明さんです。彼がこの旅を思い立ったのには、こんないきさつがありました。
 1997年12月31日、内田さんが所属する山岳会のお仲間三人が剣岳で雪崩に巻き込まれて行方不明になるという事故がおきてしまったそうです。翌年から会員による懸命の捜索活動が始まり、会員は交代でほとんど毎週富山通いをしたということです。内田さんも中央自動車道|奥飛騨|神岡|馬場島というコースを何回も通って捜索に参加しました。会員の皆さんの努力の甲斐あって遺体はその年の内に見つけることができたということです。それからは、毎年6月に馬場島で行われていた合同慰霊祭に、内田さんはやはり奥飛騨経由で、欠かさず参加しているのだそうです。
 数え切れないほど往復したというこの道は、内田さんの思い出がいっぱい詰まった道なのですね。
 そんな2004年、「山と渓谷」の5月号に福地山に登山道が拓かれたという記事を読んだ内田さんは、さっそく6月の慰霊祭の帰途登ってみたそうです。福地山は 1,651 メートルの山ですが頂上からの展望が素晴らしく、その時内田さんは「この素晴らしい眺めを十六期の仲間たちに味わってもらいたい。そういった形でお役に立てれば嬉しいし、福地温泉の佇まいも気に入ったし……」と思ったのだそうです。
 2005年3月、木乃久兵衛という料理屋に集った十六期のみなさんにこの計画を諮ったところ多くの賛同を得て計画は実行に移され、その年の10月1日、参加者を乗せたバスは奥飛騨に向けて出発しました。ところがあいにくの雨のため、福地山登山は高山見物に化けてしまったということです。
 私は前回参加していませんでしたので、ここまでは内田さんから伺った話です。
 そして、一年後の2006年10月21日・22日、内田さんは諦めることなくもう一度計画を実行に移したのです。
 八王子をバスで出発したのは、計画立案者の内田さん、会計等裏方全般にわたりテキパキと心配りの行き届いた野口(青木)さん、バスと運転手の森さんを手配してくださった野口さんのご主人、野ア(武藤)さんご夫妻、山岸さんご夫妻、横手さんご夫妻、岩野さん、丹羽さん、菅野さん、弓削さん、藤沢さん、村井(清水)さん、木倉(柳瀬)さん、高島(西川)さん、田中さんの18名でした。
 このバスは八王子を出発し、中央自動車道を一直線に奥飛騨めがけて進めば目的地に早く着くことができたのですが、途中甲府南インターで一般道路に下り我が家の前で中込をひろい、中部横断自動車道の南アルプスインター(現在は増穂インターまで開通していますがその当時は、南アルプスインターまでの開通でした)から再び高速道路に入ったのです。
 無事バスに乗せていただき、参加者は中込を加えて19名となりました。一人のために遠回りも厭わないみなさんの温かさに、私は幸せ者であると思いました。
 私が乗り込んだ時、すでにバスの中は大変な賑わいでした。計画立案者内田さんは、有能なカラオケ奉行でもあるらしく、選曲巧みに次々に参加者にふさわしい曲を流し、その曲にぴったりという人がマイクを持って自慢のノドを披露し合っているのです。歌声は途切れることなく続き、山々の紅葉を眺めて感嘆の声を上げたり、歌声に拍手したり、自分も歌ったりと忙しくも楽しい車内でした。
 やがて、バスは安房トンネルを抜けると右に折れて進みました。この道は何度か通ったことのある道です。もう何年も前のことですが、朝日旅行の「日本の秘湯を守る会」の宿巡りにはまっていて、ある年の11月中旬に福地温泉の「長座」を訪れたことがありました。その頃安房トンネルはまだ工事中で、安房峠越えのくねくね道は11月になると閉鎖されてしまったため、その時は中津川インターで中央自動車道を下り、ぐるっと遠回りして福地温泉に着いたのでした。
 熊牧場と標識のあるところを少し過ぎて左折ししばらく進むと、バスは自然の中にとけ込んだような落ち着いた雰囲気の福地温泉に到着しました。ちなみに、福地とは、温泉の湧き出る地という意味なのだそうです。
 今夜の宿は、福地館。この温泉地では他の宿の湯巡りもできるということで、それぞれお目当ての宿のお風呂をめがけて出かけました。私は、同室の山岸さん、野口さん、村井さん、木倉さんと一緒に「草円」という川沿いの宿の露天風呂に入りました。他のお客さんも無く、私たち五人だけで「気持ちいいわね」と言いながらゆったりと檜のお風呂を楽しみました。
 さて、お楽しみの夕食です。食いしん坊の私が食べきれないほどの料理が並んでいました。飛騨牛の陶板焼きと焼きたての岩魚がおいしかったです。
 食事の最中に、内田さんが私の所に来て「来年のこの会は、櫛形山登山ということでどうでしょう」と急に言いました。「いいですね」などと答えると、その場で内田さんは立ち上がり、私にも立つように促すと「次回は櫛形山へ登りましょう」とみなさんに提案しました。突然にも私の住む増穂町に横たわる櫛形山登山が決まりました。
 櫛形山は櫛の形をした 2,050 メートルほどの高さの山です。7月頃、頂上付近には野生のあやめの群落が広がり、それは東洋一といわれていますが、なかなか見事な眺めです。ところが、その頃の山は登山客で賑わい、私はあやめの季節を過ぎて山が静かになった頃が好きです。
 この櫛形山は、頂上に鷹が座っている姿に似ているということから、別名「鷹座巣山」とも呼ばれ、我が家の近くにある萬屋酒蔵の辛口酒にもその名がつけられています。
 食事が終わると、囲炉裏のある部屋で二次会が、更に他の泊まり客に迷惑をかけないようにと、内田さんが宿に頼んで確保してくれた部屋で三次会がとみなさん元気なのです。三次会では知る人ぞ知るらしい「村の渡しの船頭さんは……」の歌にあわせた踊りを岩野お師匠さまから伝授され、全員狭い部屋の中で立ち上がり腰をかがめて今年六十のおじいさんになりきり、右に行ったり左に行ったりと踊ったのでした。
 明くる22日、さわやかな朝を迎え、この日も空は真っ青に晴れ渡っていました。まず食事の前に朝市へと、宿から5分ばかりの所にある朝市小屋に連れだって出かけました。新鮮野菜、漬け物、民芸品などが並んでいました。私は漬け物と木製のスプーンを買いました。村井さんが「とてもおいしい」と勧めてくれたので、彼女のまねをして水を張った桶からブルーベリージュースの小瓶を取り出して飲みました。朝の胃にブルーベリーの果汁がしみこんで体中が目を覚ましました。
 宿の前で集合写真を撮ると、いよいよ福地山登山に出発です。登山道はよく整備されていて、登りやすい道でした。ところが、山が好きなどと言いながら登りの苦手な私は、たちまち後ろの方になってしまいました。「まっいいか、ゆっくり行こう」とのろのろ登りを決め込んで歩き続けました。
 夫は独りで山歩きをすることが好きでしたが、たまには私を連れて行ってくれることがありました。そんな時は、いつも私を先に歩かせて彼は後ろからついてきたものでした。私が調子に乗って、スピードをあげると「ゆっくり行け」と背中から声がかかりました。バテてしまって、さっき休憩をとったばかりなのに、もう休みたいという私を、「一歩ずつ、ゆっくりでいいから一歩ずつ休まずに歩けば進むもんだよ」と励ましたものでした。
 ゆっくりでも、歩き続けてさえいれば、私でも頂上に着くことができる。だから私は山登りが好きになったのです。
 やがて、木々の間に見えてきたのは、中腹から噴煙が小さくたなびく焼岳でした。登るにつれて展望が開けてきたのです。第一展望台と標識のある所からは、穂高や槍が青空に聳える姿が見渡せました。白く小さくゴンドラも見えました。登山ではなく、西穂ロープウェーで紅葉見物に出かけた四人に、見えるはずもないのだけれど、みんなで大きく手を振りました。ゴンドラから眺めた雄大な風景も格別だったでしょうね。
 頂上も間近になった頃、ブナの木々に出会いました。黄金色に色づいた葉は陽の光に輝いて美しいものでした。私はブナが好きで、一〇年ほど前「ブナの木を植えて」と夫にたのんで、庭に数本植えてもらいました。でも、こうして見ると、庭にあるよりも山にあってブナはのびのびとしていました。
 賑やかな話し声が聞こえてきたと思ったら、そこはもう頂上でした。頂上ではすでに、豪華おでんパーティーの準備が始まっていました。おでんは内田さんが、コンロは野口さんのご主人がとそれぞれザックに詰め込んで運び上げてくれたものです。そして、元気よく登って早く到着したみなさんで、おでんを温めてくれていました。遅く到着した私は、お手伝いもしないでおでんをいただいたのでした。中腰で熱い思いをしながら準備してくれたみなさん、ありがとう。お手伝いができなくてごめんなさいね。あえぎあえぎ登ったあとのおでんはとてもおいしかったです。
 頂上からの眺めは素晴らしく、内田さんがみなさんに見せたいと思ったのは、この大パノラマだったのですね。若い頃槍や穂高に登ったことがある人たちは、また登ってみたいという気持ちに駆られたようでした。
 私は、槍や穂高には登ったがことがないのですが、二人の子供が小学生だった頃、家族で中房温泉から燕岳に登り、常念岳、大天井岳、蝶ヶ岳と縦走して徳和に下りたことがありました。その時、右手に聳える槍や穂高を見ながら歩き、いつかはあの山々にも登りたいと思ったのでした。でも、それは実現しないまま還暦を過ぎた今になってしまいました。
 雄大な山々をバックに記念写真を撮り、下り始めました。下りの好きな私は、今度は楽に歩けました。
 下山すると、「舎湯」と書かれた趣ある建物の中にある足湯にみんなで入りました。一列に並んで、疲れた足を湯に浸している光景はなかなかいいものでした。ここは公営の足湯で、畳の部屋に囲炉裏がきってあり鉄瓶がかかっていて湯が沸いていました。自由にお茶が飲めるようにと、茶葉や湯飲茶碗も用意されていて、そんなところにも福地温泉の温かさを感じました。
 足の疲れを癒したところで、帰りのバスに乗り込みました。みなさん疲れてうとうとと夢の世界へと思いきや、バスが走り出すとすぐカラオケ大会が再開したのです。歌いに歌って歌い続け、カラオケ奉行の内田さんの計算によると、バスの乗車時間は休憩時間を除いて行き帰り合計九時間、一曲三分として一八〇曲歌ったということになるのだそうです。
 やがて、バスは増穂町に到着し、私は一足先に降りました。
 バスの中も、温泉宿の夜も、山登りも楽しかったです。頂上で食べたおでんの味も忘れられません。なによりも、十六期の仲間の方たちと心はずむ楽しい時間を共有できたということが大きな喜びでした。
 内田さん、野口さんはじめ、私を旅の仲間にいれてくださったみなさん、ほんとうにありがとう。