故人を偲ぶ
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坂本統徳君の思いで

            須永 譲

 立高卓球部の同輩だった坂本統徳君が亡くなったことを、十六期生の運営するメーリングリストで知りました。一昨年の還暦記念同期会で再会したばかりというのに、次に得た消息が訃報とは、理不尽な思いをぬぐえません。
 同期会の会場で声をかけてきたのは坂本のほうでした。握手をすると、四〇年前の記憶そのままに肉厚の力のある手でしたので、わたしがそのことを言うと、坂本も「同じですね」と言って双方から笑いあいました。自分のことになりますが、華奢な骨組みのわりに、厚みに似た感触が手のひらにあるらしく、坂本もそのことを覚えていてくれたようです。
 坂本はわたしと同じ守備型のシェークハンドでした。しっかり腰を落とした構えは、部員の中でも随一
だったと思います。いわゆる怒り肩ではないので、学生服を着ていたりするとわかりませんが、広い肩と厚い背筋を備えた頑丈なプレーヤーでした。
 彼はある時期、古ぼけた不思議なラケットを使っていました。おそらく部の先輩が残していったものでしょう。朽ちかけているかと見えるくらい傷んだ台に、これまた弾力をなくした古いラバーを張ったままのもので、ふつうなら誰も手を出さない代物ですが、これがじつによく相手の打球の勢いを殺いで、守備にはもってこいのラケットでした。
 フォームを固めるにも適したラケットだったので、彼が練習に出てこない日には使わせてもらっていましたが、坂本はわれわれよりも少し早めに部活動から遠ざかったため、その後しばらくわたしの愛用するところとなりました。長い時間付き合ったラケットの握り心地や手ごたえは、しばらく忘れないものですが、坂本経由のラケットの奇妙な打球感は、今も手のうちに残っています。
 彼を知る同期生の思い出を聞くと、いつもにこやかで温厚な人物だったと誰もが言い、事実そのとおりなのですが、思いがけず腹のすわった図太い人格でもあったふしがあります。それに加えてユーモアも。
 巨人と西鉄が戦った1963年の日本シリーズ第7戦を、われわれが食堂のテレビで見ていたときのことです。神様、仏様、稲尾様と西鉄ファンにあがめられた稲尾投手を、巨人の打撃陣が早々にマウンドから引きおろし、後続投手もめった打ちにして、ほぼシリーズの行方が決したころ、坂本がわたしに言うには、
「巨人が勝つほうに百円賭けるから、西鉄に十円賭けない?」
 蒸し暑い日だったはずです。調べてみると、この年のシリーズ第7戦は11月に行われているのですが、われわれは額や首筋の汗を気にしながらテレビを見ていたような気がします。というのは、食堂で売っているアイスクリームを坂本が買おうとしたからです。あいにく彼は手持ちの小遣いがなく、そこでわたしから足りない十円をせしめようとしたのが、この賭けの意味でした。
 そのころわたしは巨人ファンだったので、応援チームの負けに賭けるわけにはいかず、賭けは成立しなかったのですが、このときのことは多少の後悔と笑いをともなって後年しばしばよみがえってきました。後悔というのは、あのとき坂本の遊びに乗っていれば、同じ卓球部の部員という以上に付き合いが深まったかもしれないというものです。笑いのほうは言うまでもありません。太いやつだったなあという愉快な笑いです。
 いつかどこかでまたひょっこり会うことがあったら、今度はわたしから何かの賭けを仕掛けてみましょう。きっと受けてくれるに違いないという気がしています。
2005年6月、華甲同期会にて
(左より、清水貴君、須永譲君、坂本統徳君、青木孝君)