《私たちの昭和史・その1》
私たちの生まれた頃
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 私たち16期生の多くは、1945年4月2日から1946年4月1日までに生を享けています。8月15日以前は日本の敗色が濃くなり、日本全土に及ぶ空襲で、多くの人が犠牲になりました。また、戦地に赴きそこで戦死された方も数多くいます。食糧も生活物資も不足し、人々は耐えることを強いられました。 8月15日以後は、平和が戻ってきたものの、家を焼かれた人、飢えや病気で苦しむ人々、と戦後の混乱期、生きていくことは大変な困難を伴いました。また、外地からの引き揚げには筆舌に尽くしがたい苦労があったと思います。二度と悲惨な戦争を繰り返さないために、両親や周りの人から聞いたその当時の生活環境について記録に残すことは、私たちにしかできない、また、しなければならない大切な仕事であると考えます。今回、「名前の由来」と同時に、「生まれた頃の生活環境」のアンケートをお願いしたところ、ML(メーリングリスト)で34名、50名に出した葉書で20名の方から回答をいただきました。ご協力ありがとうございました。
外地から死と隣りあわせで引き揚げてきた人

岩野浩二郎
 生まれたのは、中国中央部の東側の河南省の洛陽市近く、新郷という小さな町。敗戦を機に父の会社の鉄道で、多くの従業員や工夫などの日本人家族や生き残りの兵隊たちとの混成集団で、無蓋車に乗り込み、戦火や略奪を避けてあちこちで滞留しつつ、破壊された線路を補修したりしながら、半年かかって青島に逃れ、帰国船に乗れたということです。
 4歳上に兄がおり、3歳上に姉がいましたが、その長い引き揚げの途中で、姉が麻疹にかかって衰弱してしまい、あっけなく死亡。亡骸を野で焼き、どこかの鉄道の土手に埋葬したまま帰国。今日でもその場所は不明です。
 そういうことは周囲では日常的に起こっていたそうで、両親が亡くなった幼児は、そのまま置き去りにしてくるしかなかったのだといいます。分かっているのは、姉は乳飲み子であった僕の完全な身代わりだったことで、僕自身もほとんど奇跡的に生き延びてきたこと。
 生まれたばかりの弟思いだったという姉の様子、その日常や言動、臨終間際のエピソードを、小さいときに母から何度も何度も繰り返し聞かされてきました。母がどれほど痛恨の極みにあったか、よくわかります。どこか遠くへ向けて「姉さん!」と思う気持ちが、ずっと心の奥にあるのを感じています。

藤田宜正
  揚子江を遡ったところにある「漢口」で生まれました。父の専攻が「中国近・現代史」だったこともあり、支那派遣軍14集団司令部の嘱託として情報の翻訳が主な仕事だったそうです。
 父はなぜあの戦争に加担したのか、砂を噛むような悲しい議論をしたものです。
 空爆下、河原にいた母に墜ちていく戦闘機から手を振り続けた若い操縦士がいた、母には忘れられない映像のようです。戦時下の体験は両親の間にも深い傷跡を残したようです。

米窪興次
 「北京」での誕生であり、昭和21年に日本に引き揚げた。6人兄弟の末っ子であり、兄、姉は北京で誕生、上3人の姉は日本で誕生。引き揚げは大変危険(八路軍)を伴ったようです。10歳年上の長女は、私の「オムツ」の背負い係だったようです。

小野(長野)郷子
 私が生まれたのは終戦後で、満州の病院でそのとき生まれた子どもは私と従妹と2人だけだったと聞いています。引き揚げまでの間、住んでいた家では、下に住んでいた中国人一家が外に出ないように言って、買い物などをしてくれたと聞いています。

上条 剛
 6歳と3歳の娘の手を引き、手荷物だけを持って朝鮮から引き揚げてきたという。難渋したというが、私はちっとも苦労ではなかった。(私の生誕地は日本)

糸日谷 忠
 私は、終戦の一週間前に京城(ソウル)で生まれ、本土への引き揚げの途中はどんなだったのか……。
 首も座らず、泣くことだけは一人前、海の藻屑と消えなかったことを感謝したい。

大木 舜
 1945年8月7日に新京特別市(今の長春)で生まれ、終戦と同時に大陸を南下し、ものすごく苦労して翌年日本に引き揚げてきたそうです。列車の中、船中で子どもたちが死んだり、また、置き去りにされたりして……。その話を聞いていたので、今もって残留孤児のニュースはまともに見られません。

小林和子
 生まれたのは、満州国東安省。ソ連国境に近い町だとか。8月9日、ソ連参戦の情報がいち早く伝わり、母は生まれて2か月あまりの私を胸にぶら下げ、背にはリュックを背負って、戦火の中を逃げてきたそうです。一歩間違えば、私も残留孤児になるところでした。

片山布自伎
 通信社の記者として満州に渡った父について母と長姉も渡満。私は新京(現・長春)にて出生。父は詳しいことは何も語らず亡くなり、母も戦争中のことを語ることを拒んだまま認知症に陥ってしまったが、周囲の人からは、私は栄養失調で頭はおできだらけ、生きて帰ってこられたのが不思議と言われた。4歳で結核性股関節脱臼が発病し、18歳の初夏肺病で清瀬の東京療養所に放り込まれたときも、主治医から「引揚体験が影響しているね」と言われた。
 2006年11月、初めて長春を訪れ、断片的な証言を頼りに長春の街を歩いてきた。


お父様や身内の方を戦地で亡くされた人

鈴木 勲
 父親は昭和20年5月沖縄にて戦死。
 母親の話---妊娠7か月のとき(昭和20年3月)東京大空襲があり、命からがら故郷の郡山にたどり着いた。食糧難もあって、生まれたときの体重は2000グラム、小さかった。

松本(井上)節子
 立川には中島飛行機、という会社(多分当時は軍の管轄だった)があって危ないというので、母の実家(東村山)で生まれた。
 戦争末期、「空襲警報発令」のサイレンが鳴ると、本当にいやだったという。
 よく母は父に「お父さん、軍隊や戦争の話はやめてよ」と言っていた。母の兄は二人が戦死、もう一人の兄は軍医だったが、華南で肺結核にかかって帰ってきた(結局それがもとで昭和44年に死んだ)し、弟は軍から帰ってから長兄の未亡人と結婚したのがよくなかったのか、自暴自棄な暮らしぶりで、周りは(今思えば、本人も)大変だった。母はこれも戦争のせいだ、とぐちっていた。

堀池(志村)美智子
 昭和19年6月、叔父(賀三)が戦死しています。祖父は叔父について何も言わなかったけれど、祖母は「賀三は良い子だった、良い子だった」とよく言っていました。小さい頃、よくお墓参りに行きましたが、祖母の悲しみには思いが至りませんでした。父は戦地で感染したマラリヤが年をとってから出てきて、真夏でも40度の熱が出て布団をかぶり、ぶるぶる震えていたのを思い出します。

笹原眞文
 私の父は三代前から北海道に住んでいて北海道帝国大学農学部獣医科を卒業して獣医として軍に入り北海道にいました。この前の年賀状に叔父から「昭和20年の暮れ雪深い山鼻(札幌市)の村山家の離れでマーちゃんが生まれた日のことを思い出します。あれから60年たちましたね」と書いてきました。戦争では父のすぐ下の弟が沖縄で戦死したそうです。


お父様が兵役を免れた人


富原無量
 父は農家の長男に生まれ農学校に行かされるも、農業が嫌いで逃げ回り、家業を継がずに雪印乳業の前身に就職。結核病歴のため兵役検査も丁種不合格。
 勤務地の北海道北見市で生まれる。ここは最果ての農業集積地で、米軍にも魅力がなかったせいか、北海道空襲の折にもまぬがれた。工場からくすねたバターやチーズで飢えをしのいだと聞いている。

中込(高瀬)三彌子
 父は若い頃から肺結核で療養し、完治するまで結婚して子供をつくらないようにといわれていたということで、私は父が30歳過ぎてから生まれた子供でした。もちろん兵隊には召集されなかったので、父の親は大変肩身の狭い思いをしたと言っていました。
 生まれたのは日野市です(当時は南多摩郡日野町下田)。現在は、20号線のバイパスが通り昔の面影はどこにも見あたらないほど都市化してしまいましたが、私が生まれた頃周りは田んぼや畑でした。家ではヤギを飼っていて、その乳をしぼりそのまま消毒もしないで当たり前に飲んでいました。



戦火を逃れるために疎開した人

高木攻一
 疎開先千葉県小見川町でのこと。今は亡き母の言葉によれば、大層食料に苦労したようで、私が胎内にあるとき、無性にかぼちゃを食べたかったが、それも親戚はくれなかったとぼやいていました。
 生まれたばかりの乳飲み子である私を、10歳上の兄がおんぶして、防空壕を掘る作業に当たっていた母のお乳を飲ませようと田舎道を行く途中で、グラマンの機銃掃射を受けて、命からがら逃げ帰ったものだと、思い出話に語っておりました。

金(山城)和子
 私がおなかに入る前は、椎名町(池袋の近く)に住んでいたのですが、いろいろ検討して、山梨に疎開することに決めたそうです。ところが疎開先には近くに飛行場があり、牛を連れて田畑に行く途中で焼夷弾が落ち、兵役を免れた父が一緒にいたのですが、おなかの大きい母を置いてひとりで逃げたと、後々までも父をいじめていました。

岡本好司
 立川市高松町での空襲の後、奈良県の父の実家へ疎開途中、竜王の農家の蔵を借りて生まれたようです。母は、その頃の話をしませんでしたが、ただ防空壕に爆弾が落ち、父の軍刀が、母と私の身代わりになった話を聞いたことがあります。疎開先では、父が定職に就けず、公職追放が解ける29年頃まで、きっと貧しかったと思います。私がランドセルを買ってもらったのは、ずっと後、小学校3年生の時だったのを思い出し、父母の生活の苦労を知りました。

孝本(関谷)敏子
 婚約中に父に召集令状が来て、父は婚約取り消しを申し出たのですが、母の父親が「すぐ結婚せよ」。そこで、大急ぎで結婚式をあげ、結婚後2,3日で父は出征したそうです。父はガダルカナルに行くことになりましたが、乗るはずの船が撃沈され、乗る船がないので帰ってきました。
 その後母は私をみごもり、実家の仙台で産むことにしました。仙台なら空襲もないだろうと思っていたところ、私が生まれる2週間近く前、実家が空襲にあいました。母たちは、庭先の防空壕に逃げ、あやうく命は助かりましたが、すべてが焼けてしまいました。母たちは、山の中の知り合いの家に、峠を越えて歩いて行き、そこにいさせてもらいました。親切な家で、妊婦さんだから、と母には畳まで出して使わせてくれたそうです。その家で私は生まれました。
 1945年生まれの人口は一番少ないといわれますが、私も何度かの危ないところを、運がよくて生まれることができたのだなあ、とこの話を聞くたびに思いました。生まれることができなかった命もたくさんあったに違いありません。自分が生まれてきたときの危ない状況をきいて育ったためか、戦争というのは、歴史上のことである以前に、身近な恐ろしいことという思いができました。

廣瀬 毅
 両親と兄3人は横浜に住んでいたが、戦争拡大で両親の出身地の青梅に疎開し終戦から9日目に私が生まれた。B29が飛来するたびに大きなお腹を抱えて後ろの山に逃げ込むのが大変だったと、母から聞いたことがある。子供のときの思い出といえば、めったに口にすることができなかったバナナとゆで卵の美味かったこと、美味かったこと!! 子供心に、腹いっぱい食べたら死んでもいいと、真剣に思っていたのを覚えている。

上村(久保)文雄
 戦争がひどくなって、都心から祖父の別荘があった羽村へ疎開。陸軍立川飛行場付属多摩飛行場(現横田基地)が近いので、生まれる直前、母は姉二人(四、九歳)を置いて、鴻巣(埼玉県)へ疎開。出産前に「玉音放送」。
 母は「一億玉砕」の放送があるとばかり思っていたとか。産婦の食事は水カボチャのみ。羽村へ戻る電車のなかで「今の赤ちゃんはかわいそう」と見知らぬオバチャンが泣いてくれたとか。私の赤子時代のアダナはガンジー。
 新円封鎖前の貯え(亡父退職金)はすべて出産で使い果たし、久保の父と再婚するまでは生活保護を受けていました。「米兵は着物を喜ぶから」と売春婦になることを「民生委員」が善意で母に勧めたこともあったとか。基地から出る豚の餌用厨芥の美味しそうであったことや、我が家は停電・基地は煌々、の記憶はおそらくだいぶ後のことでしょう。

三浦(菊田)苗子
 東京から疎開して、宮城県遠田郡涌谷という山奥の養蚕部屋を借りていて、終戦後間もなくの8月30日にそこで生まれました。
 母は重いミシンを分解して手分けして持っていたので、近所の農家の方の着物を簡単服に直してあげたりしてお米を頂いたり、父は慣れない畑を手伝ったりしたそうです。一日も早く東京に帰りたかったそうで、10月には立川に移りました。

三宅(石川)征子
 両親の疎開先(長野県上田市)で生まれたのですが、間借りしていた部屋は、外との仕切りは障子のみで、「冬はただただ寒かった」と母が口癖のように言っていました。

相原(山下)忍
 当時愛育会が行っていた妊婦疎開に参加した母は、2歳の兄を連れて、甲府の法界寺の本堂に寝泊りし、境内で自炊し、お産に備えておりました。お産が近くなると市内の病院に移るのですが、私は産気づいて30分で生まれ、産湯がわくのも間に合わず、長いこと布にくるまれていたようです。


被爆した人

松田隆夫
 1946年3月26日に、原爆で家を焼かれ避難していた広島の山奥の農家の片隅で生まれた。僕の記憶では、おやじが「戦後復興・興隆への気持ちを込めて髟vとつけた」とたしか言っていた。おやじには焼けただれた広島市街の光景があったのかもしれない。母のお腹の中にいたので、僕は被爆者手帳を持っている。祖母から何回もピカドンの話を聞かされた。このことは、僕の人生や考え方に大きな影響を与えた。核兵器による世界で一番若い被爆者として、すべての核兵器・原発に反対していきたい。



東京大空襲や八王子空襲の被害を受けた人

若井千鶴
 終戦3日前は、東京に最後の大空襲があった日で、三鷹だったから誕生することができました。もし、父が祖父母の浅草の家にそのままいたら、もう火の海で真っ黒焦げになっていたでしょう。東京の空が爆弾と火事で真っ赤に染まっている中、お産婆さんに取り上げられて産湯をつかったらしいです。

田中蓉子
 母の父が軍人で、母はお見合いでやはり軍人だった父と結婚。
 父は警戒警報が発令になると夜中でも部隊に飛んでいくというのが日常茶飯事で、当時18歳だった母は、いつ爆撃されるかわからない恐怖の中で、知らない土地での夜を一人で過ごしていたそうですが、それに耐えた当時の女性の強さを、母の中にいつも感じています。
 身重の母は父が熊本に転任のため、その後立川の実家に同居。隣家の、母のかかっていたお産婆さんは、ご主人に危ないから防空壕に入るように言われ入ったところ、なんとその防空壕に焼夷弾の直撃を受け無残にも亡くなり、防空壕に入らなかったそのご主人は助かったという皮肉な、運命のいたずらが……。母たちはすぐ隣の防空壕に避難していたが、運よく無事に助かったそうです。

川俣(山下)あけみ
 産着もおむつも焼かれて、親類からもらった古い浴衣でおむつを作り、母の腹帯のさらしで産着を縫うなど、苦労があったようです。東京大空襲のとき、水をかぶりながら火の中を逃げまどった母のお腹にしっかりとしがみついて、流産もしなかったくらい生まれる前から丈夫だったのか、産後の母は食べ物が乏しく、母乳があまり出ず、私は農家に頼み込んで分けてもらった山羊の乳で、栄養失調にもならず、痩せっぽちのすぐ上の姉と違い、、丸々と太った赤ん坊だったようです。

野口(青木)住江
 八王子空襲の一か月前に私は生まれ、空襲が激しくなり、そのつど市民は裏の山に逃げたそうです。山に行くには川を渡らねばならず、それも度重なったので大変なことだったようです。姉の話では あちこちの防火用水には火傷した人達が首を突っ込んで死んでいたそうです。母は、私を出産した後の生活が大きく影響してか、昭和30年に亡くなりました。
 父は八王子で織物業を営んでいましたので、焼け残った工場が小学校の職員室となり、焼け出された先生方がそこに住んでいたそうです。勉強は焼け残ったほかの工場だったり、青空教室といって川原でしていたそうです。父は工場がみんなの役にたったことが一番の誇りだったようです。

山岸(片貝)勝子
 東京の幡ヶ谷に住んでいた両親は、毎日の空襲に慣れっこになっていたようです。空襲があるたびに、家の玄関に出て、近所の子を背中に背負って、落ちてくる焼夷弾を見、「花火のようにきれいだった」と言っていました。ある日、家のすぐ近くまで焼夷弾が落ちてきて、これは大変と、大事なものを取りに家に入り、二人で逃げたようです。逃げるといっても、どこまでいっても火の手はあり、逃げ惑う人々で大混乱。熱くて川に飛び込んだ人は、つぎつぎと飛び込んでくる人で、圧迫され、結局はほとんどの人が亡くなったそうです。
 家から持ち出したものは、母は手拭とバケツ、父は、多分ハンコとか書類のたぐいのものだったのでしょう。母が持って逃げた手拭とバケツで、防火用水があるたびに、バケツで水をかぶり、手拭で口をふさいで逃げ、おかげで両親も命拾いし、母のお腹にいた私も助かりました。空襲もおさまり、やっとの思いでたどり着いた我が家は、跡形もなく焼け落ちていたそうです。その後、手に入れた切符で、父に見送られながら、母は、大きなお腹をかかえ新宿から汽車に乗って疎開先の群馬の実家に帰ったといっていました。「いやー、焼夷弾が不発で足元に落ちてきたのには、本当に驚いた」とは、父がお酒を飲むたびに、聞かされた話です。

中島 進
 八王子空襲で焼け出され、どうしようもない状態で、農家だった母の実家を頼り、現在の武蔵村山市三ツ木で生まれました。この実家の庭に清水の湧く小さな池がありました。時折訪ねてザリガニをとって遊びましたが、このザリガニ、横田基地の進駐軍から自然に広がったものだと教えられました。

野ア(武藤)晴美
 8月2日の八王子空襲で焼け出された母は、一人大きなお腹をかかえて、同じ八王子でも焼けなかった母の実家に身を寄せ、そこで私は生まれました。広島に原爆が投下された8月6日に、父は広島のはずれにいて、遠くで原爆が落ちる様子を見たそうです。その時、自分はコンクリートに囲まれていた所で洗濯をしていたので無事だったけれど、兵舎の中にいた人たちはガラスの破片を身体に受けてたいへんだったそうです。その時放射線を少し受けたということで父は被爆者手帳を持っていました。その父が広島から、母と9月に生まれた私の元に帰ってきたのは、次の年のお正月過ぎだったそうです。

上阪信道
 父は満州・中国・ニューギニアと転戦しましたが、幸いなことに終戦の年は国内で軍務に服していました。しかしほとんど家に帰れなかったようです。母は当時父の家族と共に荻窪で生活。家族の誰も防空壕を掘ろうとしないので珍しく帰宅した父に、防空壕を掘ってくれと頼んだら、「ちっちゃな防空壕など爆撃されたら生き埋めになって、かえって危ない」といって取り合って貰えず、家には防空壕がなく隣組の人から叱られたと後に母が言っていました。終戦になり私の出産のため、父母は母の実家の岡山県の児島(現倉敷市)に疎開。海辺の風光明媚で食料事情も良かった地ですが、父には居心地が悪かったようで、出産後しばらくして、家族で食料事情の悪い荻窪に舞い戻り、父は慣れない仕事を始め収入はほとんどなく、母はたけのこ生活での食料確保に苦労をしたようです。

中平孝夫
 空襲の激しさが増す中、原町田(今の町田市)で生まれた。3月10日の東京大空襲で真っ赤に染まる東京の空が、町田からもはっきり見えたそうです。空襲警報がなるたびに防空壕へ。ただ防空壕が小さかったため、乳飲み子の私はいつも家に置いていかれた。親が防空壕から出て家に戻ると、私はいつも廊下を舐めながら這い回っていたそうです。
 生後間もなく、陸軍士官学校の教官をしていた父は、士官学校の移設(相模原→長野)に伴い長野へ。同時に母と三人の子供は、遠縁をたよって山形へ疎開。本来は故郷の高知に行きたかったが、すでに瀬戸内海は潜水艦により危険だったようです。
 戦後しばらくの間、母が父のそばを片時も離れなかったのは、父の自害を恐れたためだったらしい。口癖に、戦死した多くの士官学校の友人に申し訳ないと言っていた。78歳で他界するまで、戦争のことはほとんど語りませんでした。父なりに責任を感じていたのでしょうか。


戦場となった沖縄の戦後の様子

白井(古堅)千賀子
 私の両親は沖縄出身ですが、戦前は、東京で生活していました。父は、軍靴を作る機械を作っていたので、徴兵されなかったそうです。戦火がひどくなって、千葉に疎開しました。私は、8月2日終戦直前にそこで生まれました。戦後、沖縄が焼け野原になったと聞き、一族は沖縄へ引き揚げたのです。地上戦のあった沖縄は戦火で焼け、中心部の那覇は接収されていました。住民は石川(中部)に集められたために、小さな部落だった所が市になったほどです。戦争中にヤンバル(沖縄北部)に逃げていた那覇の人たちも石川に集められたので、母はそこで祖母に会うことができました。気の毒に祖父は昭和21年1月4日に栄養失調のため亡くなっておりました。


そのほかの貴重な証言

浅野晴美
 昭和20年11月8日、空襲を予想して芝白金から疎開していた三鷹の家で、私は生まれた。疎開のつもりがついの住家になった四部屋の小さな家は、祖父母家族と私の家族、母の兄弟の家族などが同居している上に、父の知人親子が一時寄宿していたり、子ども心に住宅事情の悪さは身にしみて分かった。街角でアコーディオンを弾きながら軍歌を唄い献金を乞う傷痍軍人の義足をこわごわ見た記憶。「戦争で全部焼けちゃったからね。戦争がなかったら……」と繰り返し嘆いていた祖父母の話や、空襲の中をいかに生きのびたかという父母の話が、戦争に対する私の心情を培ったと思う。
 35年間の教職を通じて戦争に反対することを伝えるのが使命と思ってきたが、今世の中の空気は不穏である。戦争の空気を吸って育った私達ができることをやりたいと思う。

菅野和雄
 近衛兵だった父が、戦後復員し立川警察署に警官として赴任してきたために、私だけ基地の町「立川」で生まれました。物心ついた時の記憶では、水道はなく、共同井戸で水瓶に水を入れて生活していました。風呂は、ドラム缶を利用した五右衛門風呂で、水を入れるのが大変でした。食事は、父が警察官をしていたため闇で買うこともできず、粗末なもので、大抵「水団」で具もわずかしか入っていませんでした。白米などは、「銀シャリ」と言って、なにか祝い事でもないと口にすることができませんでした。

永谷泰啓
 父親は測量技術者でした。地形図は軍にとっては戦略情報です。参謀本部に入り、現地のスタッフであった中国人の家を訪れることもあったようです。北京から、測量に出かけるときにも警護はそれなりにされていたのではないでしょうか。赤紙が来て関東軍に入り、健康優良児であった父は、機関銃座を持つ班で、古年兵のいじめなどは一通り経験しました。そこで病気になり国内に送還され、終戦を迎えました。部隊は全滅に近い状態であったので、病気が命を救ったといえるのではないでしょうか。

下川正和
 父親の戦争体験に血煙の漂う火薬の臭いがしません。恐らく戦闘経験はないのではないかと思います。それでも、異常な感覚の中で現地人を蔑視し、経験年齢を規範とする暴力の横行などには、逆らいませんでしたが、不合理を感じていたのではないでしょうか。  帰国した父親は、結婚して松本に疎開していました。陸軍の参謀本部の関係と思います。ここで私は命をもらいました。生まれたのは戦後で、場所は親族に囲まれた足立区の借家でした。戦後のどさくさで、私は栄養失調で明日をも知れない状態が続き、両親は苦労したようです。弟が生まれ、こちらは元気でぴんぴんしていたのですが、風呂でうつされた伝染病が原因で急死しました。父親は私に掛かりきりであったために弟を抱くことがなく、それが心残りだったと語っています。

梅原(大野)幸子
 生まれた場所は恩方村駒木野(現八王子市恩方町)。父の実家が醸造業を営んでいて、本家の二階に家族五人が疎開していて、蚕や桑の葉でいっぱいの蚕室部屋で生まれました。「繭と桑の中に赤ちゃんがいて、繭か赤ちゃんか区別がつかなかったなぁ! あの蚕室っ子がよくも大きくなって……」と恩方に帰るたび親戚や近所の人達に言われました。

湯川(赤岡)晴美
 戦後半年たって、物のない時代、母の実家が寺なので、漢方薬(千葉実母散)を京橋で営んでいた祖父が、手を尽くしてアメリカのコンデンスミルクを私のために入手し、仏間の仏壇のところにおいておくと、夜中に叔父やらお手伝いさんやら、ひとなめしていくので不衛生極まりないミルクを飲んで育ちました。

安東(篠田)勝美
 わずか四か月ほどですが、終戦前に生まれましたので、貨物列車での疎開経験をしているそうです。泣き騒いだりせず、「とても良い子」だったそうです。

木村(山下)富美子
 母が四十二歳で産んだ「うらなり」だったせいか、生まれつき体が弱く、家の前に小児科医がいなかったら、育たなかったとか。父は、書道学院を経営する書家で、華族の方々にもお教えしていたし、弟子もたくさんいたが、私が生まれた頃から、才能のある青年たちが次々出征し、中学生や女学生は、勤労奉仕で忙しく、静かに書道などできる雰囲気ではなくなってきていたようだ。

青木 孝
 私の誕生のときにお産婆さんが間に合わなかったと聞いていました。当時は自宅出産だったし、電話もなかったし、片道三キロくらいのお産婆さんの家まで父が自転車で迎えに行って、自転車の後ろに乗せて来たそうです……。やっと間に合ったということですが、お産婆さんにやってもらったのは産湯くらいだったみたいです。

木倉(柳瀬)文子
 豊川出身の父が、佐賀の軍隊に電信隊として配属されていた昭和十九年に、大森出身の母が嫁いだので、私の出生地は佐賀市となりました。
 8月2日 空襲警報の中、母は一人自転車で病院へ行くも、受け入れてもらえず、家に戻る途中で破水してしまったそうです。それでも家に戻り、お産婆さんが来たときには、頭が半分出ていたそうです。
 8月6日 広島原爆投下。三か月後ここを通って祖父母の元へ。
 8月9日 長崎原爆投下。音や光に母は気づいてないそうです。
 8月15日 八代湾からの米軍上陸阻止に向かっていた父は、人吉で終戦を迎えました。佐賀に残された母は、人が米軍の奪略、強姦を恐れて、天山、背振山へ逃げていく姿を見送りながら、白装束に身を包み、懐剣を用意し、私を殺して自害する覚悟をしたそうです。産後二週間だった私が泣いて、皆に迷惑をかけないようにとの思いだったと聞きました。このとき、最後に白米が一律に分配されたそうです、少人数の我が家は得をしたこと、それを豊川の舅、姑に送ったことを自慢しています。

弓削文隆
 自宅(静岡県島田市)で、お産婆さんに電話をして、まだお産婆さんが到着しないうちに生まれ、近所の方に手伝ってもらったそうです。乳も足りないので、ヤギの乳を田舎に行って買ったようです。母の実家が農家で、食べ物は配給の食料以外に手に入ったので、多少はよかったようです。

久野(服田)春子
 戦後、疎開先の北信州から、東京の小金井に戻りました。当時、小金井は畑と雑木林ばかりの所でした。食べ物の無いときでしたので、近くの畑を借りて、母親は毎日、畑仕事をしていたのを覚えています。神田に住んでいた親戚へ野菜を届けに、父親と一緒に中央線の電車に乗って行き、大根などを貰った叔父が大喜びをしていました。

小川忠夫
 生まれたのも育ったのも小金井です。空襲はなかったようですが、流れ弾が倉に当たったりしたようです。「スイトン」や「イモ」ばかり食っていた記憶がありますから、生まれた当時はさぞかし悲惨な生活環境だったのでしょう。

石井大介
 上に姉ばかり五人いて、男がほしかったようです。六人目でやっと男の子、もう一人と頑張ったら妹が生まれ、七人姉弟の男一人で結構大事にされました。物心付いたときは父もなく、女の家庭で育てられた感だけが残っています。


戦後の混乱期もさほど苦労もなく生活した人

望月(望月)栄子
 生家は、今は兄が住んでいますが、周りじゅう廊下で、床の間ばかり幾つもあり、押入れのない不便な家でした。そこに終戦近く、一時期華族の島津久厚(後に二十三代学習院大学学長)ご夫妻が疎開していました。福生駅から二、三分のところなのに、当時の都心(青山)からみれば、はるか田舎だったのでしょう。六畳大の防空壕があり、家にいた、今でいうお手伝いさんとよく中で遊んでいました。父は自家用車としてジープを持っており、敗戦国日本の苦しい時代に恵まれた生活をしていたようです。

小枝暉久
 父は理系のため、学徒動員もなく、卒業後は燃料省(東府中)で研究。英語もできたため戦後もしばらく進駐軍との中継ぎの役を任された。母方は、大日本測量(株)の創業家で地図等も作成。そのため祖父は東亜にもよく出張で出かけていた由で、国際派。母も女学校を出てから杉野(今のドレメ)で洋裁を習得し、進駐軍の奥様たちのパーティ用のドレスを縫ったりで、我が家には米人が頻繁に往来していました。

法木(八木)和子
 三歳ぐらいまで父の故郷の明石にいましたし、記憶にある範囲ではそれほど苦労した覚えはありませんが、小学生ぐらいのとき、弟と二人でよく食べていましたら、父がよく「戦争中でなくて良かった」と言っていました。戦中・戦後は食べ物を巡って家族で揉め事があったというようなニュースが時々報道されていたそうです。