《私たちの昭和史・その1》
私たちの生まれた頃
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16期生名前あ・ら・か・る・と/男子編

【その1】
 男子名の語尾は、「お」の読み=〔夫(23)、雄(21)、男(14)、生(4)〕が圧倒的に多く全体の2割を占める。これに定番の〔彦(14)、郎(14)、一(12)、司(8)、之(8)〕を加えると4割となる。女子の「子」ほど多くはないが、時代を反映しているといえる。
【その2】
 この語尾の傾向は、戦前、戦中、戦後をとおして変わらない(14〜18期)。これら定番語尾が減るのはずっと後のことである。ただし、戦後になると、〔二、冶、樹、人、己〕などが徐々に増えてくる。
【その3】
 語尾専用文字を除く有意文字の順位を見てみると、正(23)が圧倒的1位で、ついで和(10)、隆(10)、明(8)、幸(7)、孝(7)、勝(7)、義(6)、豊(6)、敏(6)、忠(5)、武(5)、征(5)、宏(5)、泰(5)、康(5)、芳(5)、文(5)、博(5)、光(5)の順となっている。
【その4】
 この「正」は、16期の記念すべき文字といえる。14〜15期では少なく16期で急増し、以降の17〜18期でもその傾向が続く〔11-8-23-22-22人〕。終戦期という16期を境に変化した典型的な例である。
【その5】
 同様に、戦後になって増えた文字は〔和、幸、芳、文、博〕である。逆に、戦中に多く戦後に減少したのは〔勝、忠、孝、武、征〕などである。〔明、義、敏、宏、光〕は変化がない。面白いのは〔隆、豊、泰、康〕で、この4文字は16期だけに多く見られる。
【その6】
 戦争を反映した文字の変化を見てみると、〔勝=5-17-7-3-3人〕〔武・功・勇・壮・勳=12-17-10-2-2人〕で、敗色濃厚な15期(昭和19〜20年生)に急増しているのが印象的で、16期を境に激減。
【その7】
 読みが同じでも文字が異なる例として「ゆき」がある。「ゆき」全体では、戦中、戦後ほぼ同数だが、当てる文字が変化してくる。戦中派の〔征・行=12-9-7-1-2人〕に対して、戦後派は〔幸・之=7-11-15-19-16人〕。これも16期が結節点だ。

〔 〕内の数字は14期から18期の各期の人数を順次表わしたものです。


16期生名前あ・ら・か・る・と/女子編

【その1】
 M生命の調査によると、昭和20年の女子名の全国順位は、〔和子、幸子、洋子、節子、弘子、美智子、勝子〕の順となっている。これは、戦前、戦中、戦後をとおしてほとんど変わらない。唯一、「勝子」が減ったくらいである。女子の名前は、男子ほどは戦争の影響がなかったといえる。
【その2】
 16期の順位は、〔晴美(5)、和子(4)、幸子(3)、節子(2)、美智子(2)、勝子(2)、正子(2)、明子(2)、恵子(2)、裕子(2)、道子(2)〕の順で、おおむね全国傾向に合致するが、「晴美」だけが違っている。14〜15期、17〜18期通算してもわずか2人で、16期だけに突出して多い。16期を代表する名前といえよう。
【その3】
 ちなみに、今回のアンケートに回答してくれた「晴美」さん3人は全員、終戦後の生まれである。戦争が終わって晴々した思いを名に表したのかもしれない。一方、「勝子・勝美・征子」さんは全員、終戦前の生まれである。
【その4】
 昭和初期から戦後をとおして、語尾に「子」を付す名前が主流だったが、16期も「子」が75%と圧倒的に多い。また、「子」のバリエーションの「え(江・恵・枝)」「み(美)」「よ(代)」は20%で、これ以外の名前はわずか6人を数えるのみである。


名前の由来(その1)(◆…終戦前生まれ ◎…終戦後生まれ)

【祖父・知人が命名】
◆若井千鶴(祖父が姓名判断に凝って。長生きするように)
◆孝本敏子(祖父が命名)
◆山岸勝子(3候補をお稲荷さんに置き、祖母が引き当てて)
◆野口住江(近所の氏神様からもらった。「江」は代々)
◎中島進(戦争に勝っても負けてもこの名ならばと祖父が命名)
◎上条剛(祖父が命名)
◎藤田宜正(父の上官の将校・書家が命名)
◎望月栄子(春陽会員の彫刻家が戦後日本の繁栄を願って)

【家代々の名や父母から】
◆岡本好司(祖母の出が司祭の家柄で「司」を)
◆弓削文隆(長男に「文」をつける慣わし。「隆」は西郷隆盛からか?)
◆白倉克文(代々「文」をつける慣わし)
◆糸日谷忠(祖父・父の名から。口と心を結んだ正直な人に育つように)
◆安東勝美(父から「勝」、母から「美」)
◎永谷泰啓(軍人の祖父が上官から「啓」をもらい、その後代々)
◎下川正和(父の「正」をとって)
◎中込三彌子(父母とも「三」、「彌」は父の好きな字)
◎笹原眞文(祖父の「文」と乃木希典の「希」から希文。それが直前に変更された)

【有名人・地名・季節から】
◆大木舜(中国古代の皇帝から)
◆川俣あけみ(幕末の歌人/国学者・橘曙覧から)
◆廣瀬毅(犬養毅から)
◆白井千賀子(千葉の平賀で生まれて。戦時中の次女ゆえ簡単にすませた?)
◆久野春子(「勝子」の予定を変更。春めいた4月中旬に生まれて)
◆片山布自伎(『出雲風土記』に載っている松江市の嵩山布自伎美神社から)

【聖書・小説】
◆菊田苗子(聖書の「初めに苗、つぎに穂、つぎに穂の中に充ち足れる穀なる」から)
◎富原無量(阿部知二の小説の登場人物「兄・一(はじめ)、弟・無量(むりょう)」から)

【戦争・出征に関連して】
◆相原忍(戦争に勝つまでは忍ぶようにと)
◆高木攻一(勝利を夢見て「特攻隊」から)
◆三宅征子(父が出征中だったため「征子」と)
◆鈴木勲(父が沖縄で戦死。出征前の書置きにこの名が)
◆小林和子(父がこの名を言い残して出征)
◆木倉文子(父母の出会いが慰問袋の中の文=ふみがきっかけだった)
◎小野郷子(満州で生まれ「故郷」を思って)


名前の由来(その2)(◆…終戦前生まれ ◎…終戦後生まれ)

【子を亡くして】
◆高橋萬年(5日前に5歳の兄が亡くなり、長生きしてほしいと)
◎尾崎成孝(2か月前に2歳の兄を亡くし、成功し孝行するようにと)
◎梅原幸子(前年兄が栄養失調で亡くなり、幸せになってほしいと)

【父母の願いを込めて/男子】
◎上村文雄(これからの日本は文化で生きてゆく)
◎松田髟v(戦後復興・興隆への気持ちを込めて)
◎岩野浩二郎(広い海外へ出て行ってほしい)
◎菅野和雄(平和の時代の英雄になってほしい)
◎上阪信道(自分の信じる道を進め)
◎小枝暉久(太陽のように光り輝いてほしい)

【父母の願いを込めて/女子】
◆木村富美子(富士のように気高く美しい子になるように)
◆松本節子(特に意味ない? 節度のある人間になれ)
◆金和子(平和を願って)
◎野ア晴美(晴れやかで美しくと願って)
◎湯川晴美(赤い丘〔赤岡〕が晴々と美しく輝いているように)
◎浅野晴美(この秋晴れの美しい空のような子に育てと)
◎田中蓉子(芙蓉の花のように美しくやさしい女性になってほしい)

【その他】
◆石井大介(画数が少なく、重みのあるようにと)
◆中平孝夫(軍人の父らしく3人兄弟に「忠・孝・和」を)
◆小川忠夫(お国に忠義を尽くせということか?)
◎木田栄一(画数で決めた)
◎岸本郁江(父の名から「邦」を使う予定だったが、先に従妹に使われてしまったため)
◎堀池美智子(美智子、恵子という候補から)
◎青木孝(父が気に入っていた名前)
◎法木和子(父が「和」の文字を気に入っていた)
◎山岸忠雄(長男には「喜」だが次男なので、ただわかりやすく?)


■ ■ ■ ■ ■ 聞き語り ■ ■ ■ ■ ■
母から聞いた「朝鮮からの引き揚げ」の話
山岸 忠雄

 私の父は長野県、母は高知県の出身とそれぞれが離れていたが、外地の朝鮮で一緒になった。父は上田市の上田松尾中学(現上田高校)から京城薬学専門学校(現ソウル大学薬学部)に進み、薬剤師になり厚生省の役人として外地で勤務していた。母は小学校教師の両親を持ち、釜プサン山高等女学校を卒業した。父と母は、見合いで結婚した。私が小学生の頃に、
「お母さん、どうして親父と結婚したの?」と聞いたら、
「おばあちゃん(母の母)が、教育県の長野県人は賢くてしっかりしていると薦められたから……」と母は答えた。
 住んでいたのは、朝鮮半島の日本海側で38度線近くの三渉(サンチョク)という海に近いのどかな町で、「冬は寒いが、夏は夜釣りでうなぎがたくさん釣れたよ」と父が言っていた。そんな町で、3歳上の兄(昭和17年11月生まれ、立高13期生)と1歳上の姉・朋子(昭和19年生まれ)は生まれた。
 終戦時には、父は現地招集で衛生兵として京城にいた。母は女一人で持てるだけの手荷物を持って、2歳9か月の兄の手を引き、1歳半位の姉を背負い、下関・岡山・宇野・高松・高知を経て、両親のいる高知県安芸郡安田町まで引き揚げて来た。
 三渉に住む日本人の数家族と共に、現地の漁船をチャーター(借り上げ)して下関を目指した。
「まっすぐ行けば、2〜3日もあれば着くのに、2週間位かかってしまった。朝鮮人の船長が酒飲みで、港に立ち寄っては金が無くなるまで飲んだくれる。金を渡すと出発するけど、またしばらくすると港に立ち寄るということの繰り返しだった」 「一緒に引き揚げて来た人に御殿場のHさんという方がいてね。Hさん家族は、私の子供たちと同じ年齢の乳幼児2人を抱えていたので、共に苦労したし、随分世話にもなった」
「やっと下関に着いた時は、ホッとした」
「でも、高知までの切符を手に入れるのがなかなか大変でね。すぐには、手に入らなかった。」 「お兄ちゃんは疲れて、歩くのを嫌がった。赤ん坊の姉・朋子の粉ミルクを溶くために、お湯を貰えるところを探さなければならないし、苦労した」
「お兄ちゃんは、疲れてボーッとしていたのか、知らないおじさんの手を掴んで迷子になりかけたこともあったね」
「下関では、親切な復員青年がいて、荷物を持ってくれたり、切符を手に入れるのを助けてくれたりした。あの時は、本当に助かった」
「本当、朝鮮からの引き揚げの苦労を思うと、どんな苦労も乗り越えられる」 「必死だったもの……懐に大切に青酸カリも持っていた。どうしようもなくなって、いざという時には、それを飲んで死ぬ覚悟だった」

 安田の両親の家に着いた時のことは、母から何も聞いていない。母の一番下の妹である叔母(当時、高校生)は、「姉が背中に赤ん坊(姉・朋子)を背負い、両手に持てるだけの荷物を持って、男の子(兄)を連れて帰ってきたのを覚えている。……国敗れて、何も無いときでしたから、大変でした。ミルクに入れる砂糖も無く、持ってきたブドウ糖を大事に使っていましたね。……何しろ、すごい食糧難で塩、砂糖、醤油、味噌、食用油もありませんでした」と言う。
 そうした状況下の10月に、私は母の実家、高知県安田町唐の浜で生まれた。そして、食糧事情もあって、その年の12月に、父方の本家(長野県小県郡)に移動した。 「高知から長野まで行くのも、混雑で大変だった。お前(私のこと)を網棚に乗せ、よその人が荷物を置こうとすると、 『すみません、そこに赤ん坊がいます!』と大声をあげたの……潰されちゃうからね」
「本家は農家で手伝うのだけれど、農作業に慣れていないから結構辛かった。」
「私は母乳がほとんど出なかったので、同じ年の赤ん坊を持つ近所の叔母さんの乳を貰ったり、ヤギの乳を飲んでお前は育ったのだよ。そういったことがなければ、死んでたろうね」
「長野の冬は寒くて、私はお前の面倒を見るのに忙しかった。栄養失調もあって、姉・朋子が風邪から肺炎を起こし、亡くなってしまったのは、本当に無念でしようがない。朝鮮から必死に連れて帰ってきたのに……」
「亡くなった朋子ちゃんは、頭がよい子だったよ。みんなが、『朋子ちゃん、もうちょっと器量が良いといいのにね』というと、まだ1歳半位なのに鏡台のところに行って、お化粧するまねをする……」と母はさびしげに語っていた。
「朝鮮からの引き揚げは大変だったが、長野での生活も大変だった」
「何よりも、朋子を亡くしたことが辛い」と母は言う。
 母は、この戦争で弟・内川九萬彦(三重県明野陸軍飛行学校教官、昭和19年両親のいる朝鮮へ移動中、米軍飛行編隊に遭遇し敵機(飛行艇?)に体当たりして死亡と伝えられている)と娘・朋子を失った。そして、私が生き残った……。


 【本企画のまとめ】

 戦後60年が過ぎ、終戦っ子のわれら16期生も還暦が過ぎてしまいました。世は今、「団塊の世代」ばかりが話題となっていますが、われらもまた、終戦(敗戦)という未曾有の困難の中でこの世に生を享け、戦争の影を背負いながら貧しい戦後を、そして華やかな高度成長期の原動力として生き抜いてきました。

 そのわれらを支えてきた両親が他界してもおかしくない年齢となっています。両親が存命中に、われらのルーツである「生まれた時代」を振り返ることによって、親への感謝と、自分たちの国への思い、そして、これからの人生を大切に生きる契機になればと、今回の企画は立案されました。

 皆さんから寄せられた回答には、ただただ驚きと感銘を抱くばかりです。高校時代の、くったくのない明るく利発な、あの人、この人が、そのわずか15年前にこんなにも波乱に満ちた困難の中で生を享けたなんて、当時は想像さえしませんでした。何十年も経って今ようやくそのことを知ることができ、時代を共有できただけでも、この企画をやってよかったと思います。
「私たちの生まれた頃」はもとより、「名前の由来」のひとつひとつにさえ、時代性が読み取れ、また、両親がいかにわが子に思いを託したかを知ることができて感慨深いものがあります。

 ただ困難の中で生まれただけでなく、もしかして運命の悪戯で、その人はこの世に存在しなかったかもしれない。そう思うと、疎遠だった人、ちょっと気に食わないと思っていた人、そんな人たちが皆いとおしく感じられ、その人生を大切にしてあげたい、そう思ってしまうのです。皆さんは、どう思われたでしょうか?
 今回の企画が、今後さらに形を変えて深まっていければと願ってやみません。
(文責・富原無量)
アンケート回答は全文を掲載したかったのですが、紙面に限りがありますので、一部割愛し、掲載いたします。ご了承下さい。
本文構成/岸本郁江
16期生名前あらかると構成/富原無量
名前の由来構成/富原無量
写真提供/岸本郁江・堀池美智子・山岸勝子・田中蓉子・弓削文隆・片山布自伎
 (なお、写真と本文は関係ありません。あくまでも、当時の資料として掲載させていただきました)
本企画「私たちの昭和史」は、今後も継続して掲載していきたいと思っています。次回は「幼・少年少女時代」についての思い出を募集します。六五ぺージの「原稿募集要綱」を参考にふるって原稿をお寄せ下さい。 
(片山布自伎)