食べることはすべて命を奪うことだから、百姓の生活は絶えず命とのかかわりあいと言える。都会で買う一本百円の大根の農家手取りを三十円とするなら、都会では三十円の命を七十円の便利さに包んで食べているとも言える。田舎に住むと七十円の便利さと三十円の命をバラバラにして手に入れるから、ものによって欲しい部分だけを手に入れるという生活が可能になる。
普通、都会と比べて田舎では七十円の便利さが手に入り難いと思われ勝ちだが、数秒で世界中に行けて、欲しいものがネットワークを通じて何でも手に入れることのできる時代には、七十円の便利さが得やすいかどうかを心配するより、七十円の付加価値にその値打ちがあるかを心配したほうがよいように思う。LEO(Low Earth Orbit 低軌道周回衛星)が世界中の田舎の上空に現れる時代に過疎・辺鄙の言葉はなじまない。
『われ汝等の先祖に乳と蜜の流るゝ土地を與へんと誓ひしことを成就(なしとげ)ん(エレミヤ記十一・五)』その昔、友信館の部室で旧約聖書を読んだ頃が思い出される。オホーツクの春を待ちながら、決して貪らない自然の中に居られる冥加を思い、この春にははじめてのヤギの乳が、秋にはいい豆が取れますようにと願う。 |


網走の住居(上)と収穫した大豆で羊を集める大澤くん(下) |