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 でも、食べ物ではほんと苦労してるんだよ。(それに雲が多くて、雨が多くて…)ただ、十五年前に一年間イギリスにいたときにくらべると、食べ物とか天気とか、そういうつまんないことで、文句が多くなったな。十五年前はとにかくはじめての外国生活なもんで、食べ物がどうとか、気候がどうとかっていうのはあんまり気にならなかった。
 歳とったんだよね、きっと。でね、さすがにこのごろは自分をふりかえったりもするわけだ。「あのただ騒がしいだけの酒井が?」って、みんなに笑われそうだけどさ。(笑ってくれたら、うれしくておれも一緒に笑っちゃう)なにしろ時間はたっぷりあるし、柄にもない来し方をふりかえるなんてことをするとだね、おれはどうもみんなと十年か十五年くらいずれてると思うね。 

 結婚したのがだいいち十年は遅いだろ。それに自分の仕事みたいなのがはっきりしたのもここ五年くらいだしね。(はっきりしたっていうとかっこいいけど、それしかできなかったってことだな)で、オックスフォードに来たのも、英文データベースを使うとか、翻訳をするとか、本を書くとか、いろいろ仕事をするつもりできたんだけど、まだ三分の一しかできてないんだ。(あと一ヶ月で帰るっていうのに)翻訳だけね、できたのは。(これがまた三流の探偵小説で、大きな顔してみんなに言えない。)
 秘かに期したことはあるんだけど、うまくいったかどうか自信がない。(秘かと言いながら書いちゃうけど、なんとしても読みやすい日本語にしたかった…この程度のささやかな望みさえ簡単には手に入らない…)残りの三分の二はどうなったかというと、この先何年かかるか分からない大仕事だって、分かってきたんだな。それで、半分あきらめて放りだしたようなかっこうになってる。(もっと早くはじめてりゃよかったんだよ。せめて五年早く重い腰をあげてればね、なんとか恰好ついたかもしれないけど、いまごろ大きな仕事を思いついたって遅いって…)結局、オックスフォード大学に「訪問研究者」として来たことになっているけれど、大学にはほとんど行ってない。
この前大学気付でおれに手紙を出した人がいたんだけど、「そういう人は知りません」て送り返されたって…じゃあ、毎日何してるかっていうと、ちょっと前までは翻訳、いまは書きたい本の下調べで、ほとんど一歩も家から出ていない。これなら日本にいてもまったく同じことだな。いや、日本の方が楽にできる。調べているのは日本の翻訳小説の文体だし、腹がへったらちょっと歩けばまあまあの(イギリスよりは食う気のする)昼飯も食べにいける。食べに行くのにいちいちオーバーまで着込まなくていいし。
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