pre index
P.03

 活動が出来るようになった最初のボランティアはお年寄りの相手。1〜2ヶ月して働きに出る人々が増えると、広い部屋の中にポツンと取り残されている。話しかけても。ただ、ただ、涙を流すだけの人。私も手を握りながら波を流すしか出来なかった。同じ経験をしたもの同士、それだけで充分だった。
 娘も、居ても立ってもいられなくて、ボランティアをするために市役所へ電話するが、「後日連絡するので家で待機しているように」との返事。報道では人手が必要だと伝えているのに・・・。市役所へ出かけていく。すぐに仕事をし、夜中に帰宅、現地ではあり余るほどの仕事があるのだ。
 2〜3日して近くの避難所に移る。「アンタ、ドコノ子?」「そこの角の家です」「ナンヤ、アンタモヒガイシャヤナイカァ」。そこにも各地からのボランティアが来てくれていた。我が家の前の公道にかかって倒れている門と塀を自衛隊が片付けてくれた。しかし、公道の部分のみハンマーで上手にはつり取り、私道部分はそのまま。腹が立つどころか笑いが止まらなかった。後の始末は夫と息子の仕事になった。
 三宮の知り合いの安否を確かめに夫と出かけた。静かにバスを待つ長い行列。皆、文句を言わず、列を乱さず、整然と並んでいる。何時間も・・・。寒いとは感じなかった。遅いとも思わなかった。皆、表情もなく、静かに順番を待つ。三宮のビルは、それぞれ別の方向に傾き、押しつぶれ、倒れている。見ているだけで船酔い状態になってしまった。ほとんど略奪がなかったことを、世界の国々が称賛してくれた。日本のボランティア元年といわれたあの時、人々は皆やさしかった。温かかった。

 これは私が体験した震災の記憶です。報道によって伝えられたニュースや記事は、私の体験よりも、被害は大きく悲惨です。完全な復興には、まだ時間が必要とされています。私は、目に見える部分では完全に立ち直ったと思っています。でも、誰もが心の中にキズを持ちながら過ごしています。そのキズが癒えるまでは、復興したとは言えないのです。
 「記憶は薄れるが、記録は残る」と言います。『泰山木』のお陰で、薄れてきた記憶が甦り、記録にとどめることが出来たことを感謝しています。
pre index