白倉君は第七章の末尾で、ロシアに漂流してエカチェリーナ女帝に謁見した大黒屋光太夫に触れながら「帰国した光太夫が後に『北槎聞略』としてまとめられるすぐれた報告を残したにもかかわらず、それが衆目に触れることなく時が過ぎていった状況を考えるとき、日本とロシアとの交流のあり方が、イギリスとロシアとのそれと較べてはるかに閉ざされたものであったことに、改めて気づかされる」と書いているが、それが日本とロシアのみならず世界文学との関係だったのかもしれない。素材なくして研究など成立しないのだから。
もうこのへんでやめておこう。さっきから脇の下の冷や汗が止まらない。本書は研究書である。本書の各章は、白倉君が奉職する東京工芸大学芸術学部の紀要などに発表された論文が基礎になっていることからもそのことはよくわかる。そんなことも理解せず手を挙げてしまったことを悔いてもしかたがない。こんな紹介しかできなかったこと、白倉君に詫びる。白倉、許せ。 |
ここでもう一度白倉君の院生寮の静謐な空気の思い出に帰る。本書の「あとがき」に白倉君は、「振り返ってみれば、ロシアとイギリスの文化交流に関心を持ったそもそもの発端は、一橋大学修士課程在学中に、金子幸彦先生からロシア文学を、そして増谷外世嗣先生から英文学を、親しく教えていただいたことであったように思われる」と記している。
本書のような研究は、ロシア文学のみ、あるいは英文学のみの素養でなされるものではない。あの静謐な院生寮の畳部屋の小さな座り机に、大きな体の身をかがめるようにしてロシア文学と英文学の原書を読みふけっている白倉君のが姿を想像できる。その姿が、本書につけられた20ページを超える注釈の引用出典と、300名を優に超す人名索引の背後に見えてくるように思う。
最後に本書の章頭に載せられた「テムズ川よりロンドン橋を」「リツェインのプーシキン像」など七葉の写真は白倉君の撮影によることを付け加えておく。白倉君の本書に対する姿勢が窺えるといえよう。 |