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------------本所・深川界隈-----------

 本所、深川と聞くだけで、心が小躍りする想いがしてきます。
 偶々、年の近い兄が、地の人と結婚して、深川白河に住んでいるという事情もあるけれど、ぐいぐいと引込まれ、魅かれたのは、藤沢周平の作品世界のなかの本所、深川なのです。特に、「神谷玄次郎捕物控(霧の果て)」、「彫師伊之助捕物覚え(三部作)」の主人公達がつらく、暗い過去と心の傷を引きずりながら、本所、深川界隈を地面を這うように探索を続ける緊迫した状況描写からは、彼らの息遣いまで伝わってくるような思いがします。
 少し長くなりますが、引用してみましょう。
 『一の鳥居を潜ると、富岡八幡の門前まで、路は夥しい灯りの色に彩られていた。商い店にまじって、小料理屋、料理茶屋、水茶屋が軒を並べ、それぞれが軒行灯を掲げて、その奥から三味線や唄声、酔った高声や笑い声が洩れてくる。
・・・
 「甲州はどこにいるかね」
肩を並べた玄次郎が、不意に囁いた。男はうさん臭げに玄次郎をみたが、のろい歩みを止めようとしなかった。
・・・
 甲州は、門前仲町の裏手、佃町の暗い家並みを目の前にみる橋際にいた。壊れた板戸を二枚左右から立てかけたのが住居だった。昨日の夜五つ半(午後九時)ごろ、黒江町から仙台堀を渡って、平野町、寺町通りの方に行った男女の二人づれを、誰か見ていないか、と玄次郎は言った。』(神谷玄次郎捕物控「霧の果て」 ページ)

 「上手いなあ」、と思わずうなりつつ、こころは完全に玄次郎にのりうつり、私は、八幡門前から、仲町に向かって、あるいています。
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