index next


高木攻一



1990年に建てた教会堂

ご夫妻で賛美歌を歌う
 立川高校を卒業してから38年も経過したのだろうか。近況を知らせるよう依頼を受けて、ペンならぬキーを叩きながら時の流れの早さを痛感させられます。中学時代を新宿に暮らしていた私は、転勤の多かった公務員の父が初めて建てた東村山の家に家族とともに移り住み、その結果、立川高校に通うことになりました。あの当時の西武国分寺線は二両編成で、朝のラッシュ時は凄まじいものでした。カーブに差し掛かった際に、重なり合う人々の重圧に窓ガラスが割れたことが思い出されます。
 私の人生の方向は、この東村山市への移住が決定したようです。「卒業30年後の便り」という短文集をめくってみるときに、同期の皆さんが実に様々な分野で活躍されていることに驚きを覚えたものです。そういう自分自身が現在までキリスト教会の牧師をやっていることに、われながら一種の驚きを抱いております。まさか自分が将来、キリスト教会の牧師職を務めるようになるだろうと誰が想像しただろうか。家族には教会に関係した者は一人もいない。歩いて二分くらいの汚いどぶ川の橋の袂に、引っ越したその年に建てられた米軍払い下げの、これまたお粗末なカマボコ兵舎を再生したトタン張りの教会に、高校一年の秋に、ただ、何故かふらっと出かけたのがきっかけでありました。殺風景でおよそ教会のイメージには程遠い建物であったにもかかわらず、神学校を卒業したばかりの21歳の青年牧師がユニークな方であったために、いつしか聖書の教えに惹きつけられ、自分もまたその聖書の教えを言い広める牧師となるように決断したのは、高校三年になる直前の2月でした。
 立川高校には、珍しく聖書研究部なるものがあって、部室や予算まで生徒会で認められ、少数ながら部員が活動していました。顧問には英語担当の相田望先生がおられましたが、先生ご自身も30年後の便りでは、お父様の御遺志を継がれて教会の牧師を今はなさっておられるとのこと。どうしておられるやら、私は筆不精で全く失礼をしてしまっている。立川高校の文化祭の折りに、聖書研究部の発表の一環で、私は新約聖書のローマ人への手紙の第一章から何やらへたくそな講演をしたことを記憶しているのですが、つい先日も教会で同じ個所に言及することがあり、なにか懐かしさを覚えたものです。
 私は高校を卒業すると直ちに駒込にある神学校に入門、3年間の研鑚の後に、結婚もし、自分の育った教会に赴任するや、すぐ教会の仕事に着手しました。あの若い青年牧師はすでに志を立ててアメリカに留学して不在。未熟でも私が引き受けざるを得なかったのです。
index next