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寺田 祐二
内蒙古の学生と日本語の歌詞のリハーサル

 まず、私のような、立高時代は勿論その後の人生もむしろ音楽とは無縁と言うべき者。それにも拘らず、何故標題のような不似合いな文章を書くに至ったかである。
 今年1月初旬のある晩、この「泰山木」編集部から我が家へ原稿を依頼したい旨の電話があった。昨年暮、私が編集スタッフ一同に、私が作詞作曲したCDを聴いていただきたいと申し出たことに関連してのことであったが。その依頼のテーマが「私と音楽との関わり」について、とのことであった。私はそれにふさわしくないと思いつつ、昨年暮、私の方よりCDを是非とも聴いていただきたいと申し出た経緯もあり、自信も裏付けもないまま応諾したのである。我ら立高同期には、文字通りそれにふさわしい音楽人生を歩んでこられた音楽のプロも、また当時音楽部にいた面々も多数いるのである。
 音楽人生と言うと、明るい、喜び、どちらかと言えば「幸せ」を意味するイメージである。しかし、私にとってはその逆であり、これを読まれる皆様が期待する内容には決してならないと思われる。どちらかと言えば数奇な、灰色の音楽人生である。
 次に、私の音楽がねらい目にしているもの、即ちどんな音楽かである。さて、私は今作曲家古関裕而の自伝「鐘よ鳴り響け」を手にしている。私たちが、まだ幼かった昭和28年の頃、世を挙げて流行したあの「君の名は」の一連の音楽を担当したあの作曲家である。私も余りに幼く、当時俗に言う放送の時間帯は女湯が空っぽになったとかの状況についての、また、そのメロドラマの放送に耳を傾けたとの、実感は記憶にない。
 しかし、その当時、メロドラマ終了後も数年に亘りラジオから流されたその「君の名は」に関わる一連の歌、そして、その当時盛んにラジオから今は亡き歌い手らにより流れていた「あの当時の歌」の数々に、えも言われぬ特別の感慨を持つのである。私の歌は、あの頃の歌の数々を拠りどころにしている。そして、当時の多くの作曲家のうち古関裕而に特別の愛着を感じ、私の独断と言えるかもしれないが、同氏の曲が持つ、明るい、けがれのない、すみきった叙情性に自分のねらい目を置こうと考えている。
 次に、現在の状況と作詞作曲との出会いについて。今私は、銀行勤めの定年目前のサラリーマンである。初めに記した通り、音楽のプロでも音楽に関わる人生を歩んで来たわけでも全くない。音楽に関しては、ピアノは勿論何の楽器も出来ないド素人でありはずかしい限りである。大学の法学部を卒業し銀行に入り、初めての人生を夢中で生きてきた。もうれつ社員の時代もあったし、ひたすら出世を夢見た頃もあった。しかし、心はいつも満たされなかった。自分の性格が持つ感受性、ひとへの思いやり、やさしさとかは何の役にも立たなかった。気がついてみれば五十も過ぎていた。振り返ってみると、サラリーマン生活とはこんなものであったのか。出世も栄達もむなしい。心に何の安らぎもない。こんなところから、五十を過ぎてから今後の定年後を含めた人生を如何に生きるかに関して、いわば「あがき」から、たどり着いた「こんにち」であり、自分という人間の心の奥底の成の成り立ち、自分でも今まで気付かなかった自分の内心への回顧から始まった音楽への道なのである。
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