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 それでは、本論に関わる私と音楽とのかかわり、その拠って立つもの、そのルーツであるが。私の生まれは昭和19年4月9日である。私の学校の同期は昭和20年生まれであり、私は大学へ入るまで年齢についてはずっと後ろめたい気持ちを持ち続けていた。私にとっての音楽のルーツは、なんとしても幼い日の生活体験である。私の母は、私の就学以前の幼稚園のころのある日喀血した、血を吐いたのである。その日の状況を幼いながらに覚えている。本人も周囲の大人も結核だと分からず鼻血が口から出たと騒いでいて耳鼻科へ行かねばと会話していた。母はそれ以来寝込むこととなった。そして、私も昭和29年、小学校3年生の1月の、道沿いに数日前に降った雪が残っていたある日の下校時、喀血特有のむせるような軽い咳とともに白い雪の上に鮮血を吐いたのである。雪の白さと対比、自分の身の上に起きた出来事への幼心の不安、昨日のことのように覚えている。その時、母は既に、そのたびごとに病状が重くなるという結核特有の再発を数回繰り返してきており、病状は起き上がることも困難な状態になっていた。その上に、わが子である私の喀血である。いとしい息子まで死神に取り付かれるとは、と母が受けたであろうショックの心を思うと、今でも涙せずにはいられない。半月ほどして、精も根も尽きたのであろう、母は鮮血どころか、土色の血とは思えぬような血を吐き、間もなく昭和29年2月28日40歳を目の前に、40歳にもなれず39歳と11ヶ月で亡くなったのであった。当時母の親も健在で、私も母の二の舞いに母のように死んではならぬと、親戚のすすめもあり、母の葬儀が終わって間もなく、埼玉県熊谷の結核専門病院へ入院したのである。当時はまだ戦争の影響が、国中の至るところに生活のすみずみにまで残っており、結核はまだ最大の国民病であった。実際私は多くの人の死と出会った。結核はある意味で不思議な病気である。ある期間外見上は同じ状態を過し、ある人は、死に至り、ある人は快方に向うのである。見た目だけでは、その人がどちらに向かっているのか、本人も周りの人にも解らない。母は死に、私は元気になった。それを分けたもの、私はずっと死んだ母の精霊の願いから、だと思っていた。

 以上は、以下の説明のためと言うべきであり、私と音楽との出会いは、そこでの約1年半の入院生活であり、毎日毎日どこかのラジオから歌が流れていた日々の繰り返しである。私の音楽のルーツはバッハでもモーツアルトでもない、俗に言う「あの頃の歌」であり、あの時期の生活体験である。それ以外に何もない。実際その後の学生時代においても、音楽関係の部活に属したことは一度もなかった。当時ラジオは、その人の豊かさのシンボルであった。私は勿論ラジオなど持っていなかった。しかし、ラジオを持っている何人かのひとは、午前と午後各2時間の安静時間、それから夜9時からの消灯時間を除き、ラジオは付けっぱなしが当然であった。当時の歌の流行というのは、一過性のものでなく、新しく作られた歌も、戦前からの歌もそれほど区別なく流されており、はじめに記した「君の名は」の、ドラマはもう大分前に完結していたのであったが、その余韻(というのであろうか)が残っており、その歌の数々を通し、その雰囲気を味わい体験することが出来た。その病院の入院者数は400人くらいいたであろうか、全部結核患者である。私がいた限りでは、子どもはずっと私だけであった。私は全く何の勉強をするわけでもなく、どこからかのラジオから流れてくる歌声だけを耳に約1年半そこに居たのであった。時たま私のきょうだいが、家で飼っていた鶏の卵を届けてくれて、それを飯にかけて食べるのが唯一の楽しみであった。後年も私はずっと卵かけご飯を食べると、何気なく目頭が熱くなった。当時私は子ども心に、日本の歌謡界には作曲家として、古賀政男、古関裕而、服部良一、の3人の巨匠がいることをいつしか知っていた。それはラジオからの歌を通しての知識であった。その時期だけをとれば、私はあの有名な評論家長田暁二さんよろしく語ることが出来るし、皆さんにここで披露するほどの価値はないが、そこでの日々の出来事をいくらでも書くことが出来る。振り返ると、私はその時期、日本の歌謡史に何度かの黄金期があると言われているが、間違いなくその一時期にいたのである。そして、後年黄金期の解釈については、他に楽しみがなかったとかの生活環境を理由とする諸説もあるが、私はそれを認めても、何ゆえ大衆があれほど支持したか、それを遥かに上回る、当時の担い手たちの音楽の質の高さにあったと、思うのである。その担い手とは、作曲者歌い手は勿論、それをフォローする楽器演奏者らその他全てを含めてである。
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