ちょっと、横道にそれるが、昨今の歌謡界の低迷を単にメディアの変遷にその理由を帰すだけでなく、商業主義に走るあまり質がなおざりになり、それが累積した結果ではないか、という気がしている。その質とは何かについては大いに論じたいところではあるが、一言だけ。結局芸術の本質にさかのぼることとなるが「時代を超え、世代を超え、人間という生き物の魂の琴線に触れるものは何か」である。それは、洋楽界においてもしかり、あの映画『アマデウス』にもあるように、当時モーツアルトより高い地位にいたサリエリの音楽は消え失せ、何ゆえ下位にいたモーツアルトの音楽がその後絶賛されているかである。ともあれ、そんな入院生活を1年半しながら、退院したのである。その後、五十を越すまで、ずっとあれほどまで憧れと心の乾きを抱きながら音楽から離れていたのか。理由はいろいろ考えられるが、音楽は忘れたい、封印したい過去であったのかもしれない。
最後に立高時代の思い出を結びにしたい。そんな過去を背負いながら、私は立川高校へ入学したのであった。私は内心では、音楽には人一倍の感性を持っていると自負しながら決して音楽部には近づこうとしなかった。私にとっては音楽は熱望しながら、自分の境遇がそれを良しとしない悲しみであった。当時のアルバムを手にし、音楽部のあの頃の美しきうら若き乙女子らに、どんなにお近づきになりたかったかと、述懐するのである。しかし、声を掛けることもなかった。くったくもなく音楽部で活躍している男性の面々に対しても、五木の子守唄よろしく「おどま勧進勧進 あん人達ちャ良か衆」 私は下層のもの、あの人たちは上等のきれいな帯も締められる上流のひと、の感慨にいたのだった。いま私は、自分にとっての生きがいは、やっぱり音楽であったのだ、三つ子の魂よろしく、自分の特性というものは、簡単に変えられるものではない、ひとの幸せは、富でも地位でもなく、本来の自分に立脚し心のやすらぎと仕事を両立させることだ、との思いに至っている。そこで自分の人生に一度ぐらいは花を咲かせたい、と微力ながら心ひそかに念じているのである。 |
なお、私の歌がどんなものであるかは、この文章からでは残念ながら伝えることは出来ない。せめて雰囲気だけでもと末尾に詞の一篇を添える。私はまだ駆け出しであり、自分でこれぞと思う曲は、まだ20数曲程度である。私は楽器も何も出来ないが、旋律を五線紙に書くということだけは、理由は分からないが子どもの時から出来た。私の作曲法は、通勤途上等に詞と併せ旋律を練り、後日楽譜に書き込むという方法である。私の出来るのは、旋律と詞だけであり、それ以外のことは経験もなく出来ない。モチーフ《主題、傾向》としては、結局人間の根源的情緒は「愛」であるということから、その「愛」を如何に美しく格調高く歌い上げるか、旋律に込められるか、だと思っている。 |
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軽井沢旅情 作詞作曲 寺田祐二
1、小鳥の歌に誘われて
君と尋ねし山里の
清いチャペルの十字架は
木漏れ陽揺れる森の影
2、緑にむせぶ信濃路は
谷のこだまか閑古鳥
君呼ぶ声に見渡せば
碓氷の峰の霧のうみ
3、追分宿の木の陰に
浮かぶ言葉は風立ちぬ
君に捧げん野の花の
香りに込めし我がこころ
4、いつしか黄昏せまりて
ふたり寄り添う峠みち
仰ぐ浅間も目にしみて
つきぬ思いの軽井沢 |
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