泰山木記念植樹
  2005年6月4日、立川高校(新)正門前にて
 

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泰山木の記念植樹セレモニー
木村 富美子(旧姓・山下)


 六月四日、目が覚めるなりカーテンを開け天気を確かめた。昨夜の予報どおり、曇ってはいるが雨は降っていない。植樹には晴天よりふさわしい天候かもしれないし、私も太陽の下は疲れるので、丁度よい空模様だ。幸い体調も落ちついているし、息子が車で連れて行ってくれると言うので、これなら出席できると、久しぶりに外出の準備をする。
 植樹に参加することを決心するまでは、病み疲れた姿で、数十年ぶりに旧友に会うことにこだわりがあり、迷った。だが、大勢の人が集まる所に行くのは無理でも、大空の下の植樹セレモニーなら出席できるかもしれないから、泰山木の植樹に少しでも関わりを持ちたいと思った。そう決めたら、酸素を吸いながら車椅子に乗った姿で、みんなの前に出て行くことも、気にならなくなった。
 途中、付き添ってくれるという妹を乗せて立高に向かったが、昔遠くからでも見えた塔が無くなっているし、学校の周辺も以前と変わっていて、迷いながらやっと立高の新しい正門にたどり着く。十一時には大分時間があったが、もう大勢集まっていた。数十年ぶりに再会の人の中にも、誰かすぐにわかる人がいた。みんな心から歓迎してくれた。
 建て替えられた現代風の新しい校舎は、薄っぺらな感じがした。私たちが使った校舎は、重厚なコンクリート造りで、当時としては珍しく靴のまま入れたが、少々薄暗かった。時代の流れとして、建て替えも仕方がないのかなとも思ったが、別の学校を訪れたような気がする。昔の正面玄関の位置は「あっちだ」「こっちだ」と、妹と意見が食い違うほど、立高はすっかり変わっていた。わずかに面影を残すのは、私たちの青春のシンボルでもあった泰山木や、百合の木、なつめの木など、数本の木だけだ。
 泰山木は、四十数年を経て、どんなに立派になっているかと期待していたが、太い枝までが切られて葉数は少なく、数えきれないほどの花を咲かせているはずの季節なのに、わずか三輪白い花を見つけただけだ。その傍らにあり、水面に葉を映していた池は、埋め立てられて跡形もない。
 昔の立高の伝統が大事にされていないように思ったが、そうではなく、泰山木も老いたのだと、後で気づいた。当時の泰山木は、木の盛りだったのだ。私たちが青春真っただ中にいたように。私たちが老いたと同じに、泰山木も年を取った。木にもそれぞれ寿命があるのに違いない。
 それを思うと、私たちの還暦記念の泰山木植樹は、世代交代を育てる意味でも大きいと、改めて感じる。



 さて、十一時、植樹セレモニーが始まる。前日から上村さんが下準備しておいてくださり、新しい正門を入ったすぐ右側校舎脇の植え込みの中に、泰山木の若木は植えられていた。
 私たちは、スコップで土を少しずつ代わる代わる掛けるだけである。
 その最初の光栄ある土掛けを、私がやらせていただいた。車椅子から降り、妹に酸素を持ってもらい、左手に白い手袋をして、スコップの上の少量の土を、若木の根元に掛ける。
 植樹祭に出席される皇后様になった気分! 若木に触れ、「無事に育って、花を咲かせてね」と語りかけたら、涙がこみ上げてきた。これから育とうとする若木に対する愛しさ、すばらしいイベントに参加できた感激、私自身は成長した泰山木を見ることができないかもしれないという思い、さまざまな感情が、急に胸にこみ上げて……。参加者が一人ずつ、中には二人、三人一緒に土を掛けていき、最後に上村さんが、根元が乾いたり土はねしないように、切り藁を敷き、水を撒いて、イベントは終わった。植樹を快諾してくださった現校長先生と、物理の中山先生もご一緒に、三十数名の参加者全員で記念写真を撮った。
 梅原さんが、セレモニーが始まる前から植樹の様子を、ずうっとビデオで撮り続けてくださっていた。私も何度もビデオを向けられたが、彼女のまなざしは優しく、私が出席できたことを喜んでくださっているのが伝わり、撮られることに抵抗はなかった。
 みなさんは、二時からの華甲同期会に行かれるので、私は、みなさんに見送られて、立高を後にした。離れた所で見ていた息子が、車の中で、「泰山木の花を必ず見るんだという、生きる目標が一つ増えてよかったね」と言った。
 たとえ私は見られなくても、未来の立高生たちが、新しい泰山木の花の下で、受験勉強の疲れを癒し、友情を育て、将来を語り合い、恋に胸をときめかせてくれたら、それでいい。私たちの多くが、当時、泰山木を見ながら、数々の思い出を作ったように。
 大きく育て、泰山木二号!



タイサンボク還暦記念植樹の顛末記
庭師うえ村・上村 文雄
(旧姓・久保)


 サラリーマンを卒業し、しがない庭師稼業となって、あっという間に1〇年が過ぎました。在校当時は生物部にいりびたり、一六期生の皆様とはほとんどお付合いがなく、ずっと『泰山木』とは無縁でした。ヒョンなことから、六号に「お仕事拝見」コーナーの取材を受け、記事にしていただいたご縁で、いまはすっかり泰山木漬けとなりました。
 昨年秋、幹事の片山氏から「来年、十六期生は還暦。母校にタイサンボクを記念植樹したい」とご相談を受けました。各界に幅広く活躍される同期の皆様ですが、さすがに泥まみれの現場植木屋は私だけらしく、大喜びでお受けすることにしました。
 学校当局の事前の打ち合わせには、岩野、清水、丹羽各氏と私がお伺いしましたが、大澤校長先生にまで御挨拶をいただき、恐縮しきり。卒業生を大切にしてくれる姿勢にすっかり嬉しくなってしまいました。
 植栽場所は正門右手の一等地、記念の看板設置もご了解いただき、期日は6月4日の同期会当日となりました。同期会案内には記念植樹のことが、大々的に宣伝・紹介され、希望者は手植えすることになりました。
 あとは、お引き受けした(セミ)プロの私の全責任。ところが、これがなかなか大変です。タイサンボクは数ある植木のなかでも移植困難の代表格。しかも、ご承知のとおり、巨木になりますから、公園や学校用にわずかしか生産されていないのです。顔なじみの材料屋サンに事情を話して頼むと「ウ.ン。探してみます」といささか頼りない返事。それでも、やや貧弱なタイサンボクが入手でき、前日にタイサンボク搬入、植栽穴掘りや看板設置の下準備、当日記念植樹が無事終了しました。



 当日早朝の天気予報では曇りなのに朝は雨。気象予報士の村山貢司氏(一九期生)を恨みましたが、8時には薄日も差し何よりの植樹日和、さすが村山氏の予報的中でした。事前情報では、何人かは植栽の穴堀りや給肥もやると張り切っていると聞いていたので、そのための作業はやらずに待っていました。9時頃から三々五々皆様がお集まり。何か手伝いをするかと思えば、早速に記念撮影や回顧談に花が咲き、手植えの時間の11時を迎えてしまいました(もっとも、何人か手を出してくれたのですが、ほとんどは役に立たず、むしろ邪魔をしてくれました)。
 手植えは大澤校長先生、恩師中山先生(物理ご担当)、車椅子参加の木村(旧姓山下)さん(本誌別稿)始め約40名。「丈夫に育て。早く咲け」と少しずつ土を掛けてやりました。締めは大澤先生。「還暦おめでとうございます。献木感謝します。今後も立川高校と在校生をよろしく」と、ご挨拶いただきました。大澤先生、中山先生と私が中央に、参加者全員の記念撮影し、同
期会会場へ向かいました。もっとも、植木屋がお客様の記念撮影の中央に写ったことが、世話になった親方に知れたら「記念植樹に植木屋が写るなんて。オレの市長が出た学校だぞ」と、大目玉は確実。
 記念碑除幕と違って、これからがまた、一苦労。生き物ですから枯れる心配があります。その後、何度か様子を見にいったり、現役生物部部員に除草を頼んだりしているのですが、開花(早くて2.3年後?)までは気が抜けません。天皇お手植えを担当した庭師が緊張のあまり、赤い尿が続くと聞いたことがありますが、わかるような気がします。喜寿、米寿の集まりを六月上旬に母校でやりましょう。きっと、きっと、このタイサンボクが白い巨大な花を見せてくれることでしょう。
 ただ一つの心残り。片山氏からご相談を受けたときから、タイサンボクは私が寄付させていただく考えでした。そこで、かなり貧弱な木を植える結果となりました。後からお金を下さると伺いました。それなら、記念植樹にふさわしい木が植えられたのにと悔やむことしきりです。
 私のように、トウチャン・カアチャンでやっている零細庭師は70軒のお客があれば食っていけるとよく言われます。今回植樹を担当したおかげで、「庭師 うえ村」の顧客は約100人(同期会参加者)、約400人(同期生)に増えました。ありがとうございます。
 最後になりますが幹事の皆様はもちろん、大澤校長、事務長始め学校当局各位へ厚くお礼申し上げます。