してそれは、イエスキリスト像と、主が語り続けられた神の愛なのではないでしょうか」
司祭様のこのお言葉を耳にした瞬間、長年の迷いが消え、洗礼を授けていただくことを決意した。「病いは気から」というが、一人でいるのが不安で仕方なかったのに、受洗を決意しただけで、気持ちが落ち着いてきた。家族も、信教の自由だからと、私の受洗を認めてくれた。
一九九九年十二月八日、林間聖バルナバ教会に於いて洗礼を受け、ヴェロニカ木村富美子になった。当日は晴れて暖かく、喘息の発作も出ず、息苦しさも少なく、式の間立っていることが出来た。
洗礼式には、教父母という立会人が二名必要で、Sさんの他にもう一人、と言われたとき、すぐに藤田明恵さんのお顔が浮かび、お電話でお願いしたら、快く引き受けてくださった。明恵さんは、高校のときから、そばにいると心がほっとするマリア様の温かさを持った人だと思っていたので、たいへんうれしかった。
洗礼式が始まったら、ボランティア作業などのために教会にいらしていた信徒の方々が、一時手を休めて聖堂に集まり、聖歌を歌って祝ってくださっ |
た。司祭様から、顔に聖水を掛けていただくとき、感激で胸がいっぱいになり、聖水に涙が混じってしまった。
ヴェロニカというクリスチャンネームは、十字架を肩に担われて、ゴルゴタの丘に向かって坂を登って行かれたイエスが、十字架の重さと暑さに耐えかねてよろめき、血のような汗を流されていたとき、群衆の中から歩み寄り、自分の被布でイエスの汗を拭ってさしあげた女性の名前である。人々は、奇跡を行わず捕らわれた無力なイエスに失望し罵倒し、弟子たちでさえ、ローマ側の追及を恐れて逃げ出してしまっていた。ローマに対する罪人になった者に、手をさしのべるのは、勇気のいることである。
今の世の中でも、関わりを持ちたくないために、見て見ぬふりをする人は多い。私もその一人になってしまいそうな弱さがある。だから彼女のように、優しさと勇気を兼ね備えた人間になりたいと、この教名をいただいたのである。それは取りも直さず、神の愛を語り、この世の罪をすべて負って、十字架上で死んだイエスこそ、本当の優しさと勇気を持たれた方だと信ずるからだった。
洗礼式の後、信徒の方々から「おめでとう、おめ |