西方、若狭湾一帯、北海道積丹半島。本州の田舎はしがらみがきつい、高価、原発または予定地、でダメ。最後に積丹半島つけ根の忍路(オショロ)湾が残る。ここが我が永住の地となる。
・テスト1・1975〜76・手稲オリンピアスキー場に5メータードーム(10畳)を持ち込み一冬すごす。
・テスト2・1976・石狩の農家の庭先にそのドームを移設し、そこを基地に1年間稼ぐ。 ◯定住
・1977春・忍路に移住。北斜面宅地150坪。上記ドームを家とする。連れ合いと同居。
・場所・小樽駅まで車で10キロ、北大まで50キロ、国道5号線まで歩5分、買い物は余市町の方が近い。戸数150位の集落の端、崖っ淵、眺め最高、風当たりも最高。小樽港が開けるまでは忍路湾が天然の港。本州の田舎と違い、しがらみがとても少ないのに人がいい。
・1978〜80・9メータードーム建設。これが現在の家である。無常識の家である。原木からの材料取りの指定から電気水道工事まで自作。原材料は買うが施工は業者には頼めない。お金がないあるいは |
業者ができないから。合法性? 危険は自分が背負うのだから全部自己責任。その筋から文句がくるまで放っておけ。で、市役所は見にきたが???帰った。税務署はしっかり計算していった。
・夢消える・シケの海は怖い。10メートルくらいのヨットがあの中に入ったら、ヨットの中の人間はいったいどうなるのか、世界が動きテックリ返る、が何日も続く、で、いつしか南の海へプーカプカの夢は消えていく。
・1984・山の畑を入手。4000坪弱。農業委員の助言で作文して農民の資格をもらう。たった100坪でも手で耕作するのは何て大変なんだと知る。昔の人は偉い。本気じゃないと百姓はできない。
・1985〜87・ドームを売り出そうとするが失敗。作るのは楽しい。しかし役所との交渉はとんでもなく面倒。大手も政治家も狸。個人はとても勝手。そう言う私は「商売をやってはいけない」と悟る。
・1988・北大工学部の非常勤講師になる、すなわち一定収入を得られるようになる。当時の所持金は大きくマイナス。北大の古巣にアルバイトの紹介を頼みにいき、3年生の学生実験の面倒をみる仕事に当たる。以来、毎年契約を更新してもらい、現在、 |