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 お母さんは歌いながら踊るダンサーでした。人気のスターらしいお祖母さんの踊りはセビーリャのとは違って厳しいものでした。あとで聞いたところによると、スペインの人間国宝のような人だそうです。全てがすばらしく、帰る気がしなくなった。11時半からのを「チケットを持ってないのだけれど」と黒服に言うと、「そこに居ろ」と言い、「何を飲む?」と聞いてくる。さっきと同じく席につく前に2杯。結局、始まってまた1杯、計6杯になった。終わりは26時、帰り際にくだんの黒服に「いくら払えばいい?」と聞くと「いい」と言う。しょうがないので「グラシァス」と言いながら 握手の手に大き目のお金を握り込ませた。「また来いよ」の声に送りだされた。
 ジプシー一般はたぶん危ない人が多いのだろうが、わたしにはその経験がない。単にラッキーなだけだとは思うのだけれど、シンパシコを感じてしまう。シンパシコといえば強盗(団)スリ(集団)にもシンパシコを感じられてしまう(二度も襲われた)。つくづく日本は「安全」だ。

●自己紹介
 同期の皆さんへ「早川」のアレコレを紹介しなければならないンですね。
 皆さん。ご存知かもしれませんが、立高時代、余儀なく独り暮らしをしていました。家賃・月謝から始まり全ての生活費を稼いでいました。美術は好きでその関係へ進みたかった。ゆくゆくの生活を考えるとデザインしか思いつかなかった。私学はオヨビもなく芸大を二浪してしまい5ヶ月ほど、飯場、飯場と流れて行った。金を稼いで帰ってきた。
 新宿御苑で「東京オリンピック」のための野外彫刻展が開かれていた。毛利武士郎、井上武吉、etc、etc、 感動的だった。
 とりあえず、食うこと、学ぶことは、どんな働きでも出来る、と実感していた。即転向。彫刻家で食えるか食えぬか、は思案の外だった。細川宗英という彫刻家にめぐり合ったのが幸運でした。5ヶ月の受験勉強で合格。自分の実力が有るのか無いのか不安でした。大学院一年時にベ平連の人たちと岩国に「ホビット」という名の基地監視喫茶を作った。一緒に大工しごとをした岡林信康は「ホビットに行くのは死んでももういやだ!」を作った。「見るまえに跳べ」に収録。だったと思う……。京都に戻ってみると、いい場所がある。京都にも……。と、なぜか「若者ぶんか」の拠点を作りましょう!と、いうことになった。
 二年生の5月30日わたしの誕生日の前日に喫茶「ほんやら洞」がオープンした。その年長女「由紀」が生まれ、岡林は綾部に農場を開いていた。時代もわたしも「たべもの」には無関心ではいられなくなっていた。3年後国分寺に第二の「ほんやら洞」を開いた。いまは仲間だった!?中山ラビの経営になっている。国分寺時代に山尾三省さんととても親しくなった。西荻に場所を作るとき、山尾さんが早川は「ホビット」だから「ホビット村」と、名づけよう、と。 惜しくも三省さんはもう亡い。西荻時代に「ほんやら洞 農場」を千葉の大多喜村に開いた。山梨の明野村にとても良い農地を貸していただけることになり民族大移動のような引越しをした。豚100頭、にわとり500羽。
                ミステリアスなジプシーの踊り子
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