|
|
4 共産主義はなぜ崩壊したのか |
共産主義体制が何故崩壊したのか、という大きなテーマはこれからも専門家によって研究されていくと思いますが、国家が計画に基づいて生産と分配を中央集権的に管理するやり方が継続できなくなり破産状態になったためだと思います。ソ連は余りにも強大な帝国だったので分かりにくいのですが、ルーマニアのような小国の方が共産主義の崩壊の過程が分かりやすく説明できます。
1947年にスターリン・ソ連の梃入れでルーマニアが共産主義に移行した時のルーマニア共産党はアナパウケルといったモスクワ帰りのユダヤ人に率いられたわずか600人程度の組織にすぎませんでした。他の東欧諸国でも似たようなもので大戦中にソ連に逆らったポーランドやルーマニアは戦後スターリンから徹底的な収奪を受けました。1953年のスターリン死後、デジやチャウシェスクは非スターリン化を推進し独自路線を始めます。ルーマニアは戦前から石油と天然ガスが産出する欧州では数少ない産油国です。ナチス・ドイツがルーマニアと同盟関係になった理由は元はといえば石油でした。現在でも日産15万バーレル程度の原油を産出しています。この石油生産をバックにルーマニアは重化学工業化路線を歩み始めます。
ところが1973年に発生したオイルショックやブカレストの大地震をきっかけに対外債務が膨らみ、その返済のために飢餓輸出を実行し、これがために国民は塗炭の苦しみを味わいます。不満を抑えるために秘密警察制度を強化し独裁色を強めた結果、ついに1989年に革命が勃発しチャウシェスクは処刑されました。当時の重化学工業化は極端で、鉄鋼・化学・機械にとどまらず飛行機の生産や原発建設を始めるといった誇大妄想に近いもので、基本的に農業国であるこの国には実力不相応なものでした。例えば、黒海の沿岸にガラチ製鉄所がありますが、従業員は当時でも5万人余りで学校もあれば病院もあり、さながら鉄鋼工場が町そのものでした。効率的な生産は望むべくもありません。現在中国でも国営企業をどうするかが大きな重荷になっておりますが、共産主義体制における国営企業とりわけ重化学工業は極めて非効率であり民営化に四苦八苦しております。一例を挙げますと、ルーマニアの国営企業には減価償却という、欧米や日本では当たり前の会計制度がほとんどありません。この設備の減価償却は何年間で計算しておられますか、と質問したら、100年です、と言われて驚愕した記憶があります。このように国を挙げて採算を無視した経済体制の結果、国家財政は破産し共産主義経済は破綻しました。
一方、人々に平等に分配するとの名分の下に中央集権的官僚が絶大なる権力を持ちました。いわゆる特権官僚、ノーメンクラツーラといわれる人達は、特権を利用して利権をあさり、賄賂をとり、贅沢をし、マルクスが描いた労働者のための理想の共産主義とは程遠い存在に堕落しました。革命後でさえ特権官僚は利権を奪い合いました。国営企業の責任者は子どもや妻名義で架空の会社をつくり、原料資材の購入や販売のすべてをそのペーパー会社を通して取引をして暴利を得ました。その裏には政府官僚との利権がからんでいました。
悲惨なのは一般の人々の生活です。公平よりも平等を優先するのが共産主義ですので例えば比較的豊かな年金制度が敷かれ、医療費や子どもの養育費は無料といった制度でしたが、共産主義体制崩壊後もこういった制度が残った結果、年金は猛烈なインフレで紙くず同然、医療費は無料なのが災いして患者は一杯なのに医者は海外に流出し治療が受けられず、闇医療が横行、キリスト教を敬虔に信じている人達でも闇堕胎が増大して出生率は激減、感染病の流行や売春の横行といった社会の荒廃が急速に進みました。
欧州でも有数の畜産国であったルーマニアですが、当時どういう訳かミルクがさっぱり手に入りません。共産主義が崩壊して集団農場で所有していた家畜が一般の農民に分配された結果、農民は牛をすべて屠殺してしまい
食べてしまったり、換金した結果、牛乳の生産が激減してしまいました。おかげで我が家でも最初の2、3年はベルギーからロング・ライフ・ミルクを取り寄せる有様でした。育児粉乳も無料で配給が災いして全く手に入らず赤ちゃんを抱える母親は困惑していました。品質の良い日本製の粉ミルクを売り出したら貧しい人でも子どもだけは大事で飛ぶように売れた、といった経験もあります。これではチャウシェスク時代よりも悪い、治安も悪くなる、猛烈なインフレで物価は上がり生活は苦しくなる、心も荒廃する、社会道徳も堕落する、共産主義時代の方が良かった、といった不満が充満し、一方で民族主義やネオ・ナチも台頭してきました。最後の精神的なよりどころは民族主義だけという状況です。この状況は現在も続いています。
このような現象はルーマニアのみならずロシアや他の東欧諸国共通の現象です。ユーゴの内戦があれほど泥沼化したのも、チトーの時代にそれなりに幸せに過ごしてきた人々が共産主義の崩壊により困窮化し、よりどころが民族主義だけになってしまい、しかも異教徒のイスラム教徒の多いボスニア・ヘルツェゴビナやコソボでは民族浄化という大義のもとに虐殺が行われました。ボスニアの粘り強い国際世論への働きかけにより、国連やNATOはセルビアの民族浄化をジェノサイド(ホロコースト)と認定し制裁を実施したことはご存知のとおりです。ただし、50万人以上が虐殺されたアフリカでは国連はジェノサイドと認めておらず人種差別の胡散臭さを感じざるを得ません。ウクライナから来た子連れの女性に何でわざわざ貧乏なルーマニアに来たのか、と尋ねましたら、キエフで電話交換手をやっていたがルーブルの切り下げで月給はついに1000円以下になってしまい、これでは生活ができない、飛行機代はないしビザも取れないので西側には行けない、それで汽車で乗り継いでブカレストに来た、ここはウクライナよりマシだ、5000円くらいの給料は貰えると答えました。体制の崩壊は弱いものにしわ寄せがいくのだとしみじみ思いました。 |
|
|