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5 ペトリナ氏とステリュウ氏 |
滞在中に家族ぐるみでおつきあいしたルーマニア人を二人ご紹介します。二人に共通しているのは、かつてはエリート共産党員で教養が高く政府関連の要職についており、人格的にも思想的にも非常に優れた人達です。また奥さんや子供達も素晴らしい人達でした。私の妻はとりわけペトリナ氏の奥さんやお嬢さんからルーマニア料理やガラス絵等の文化的なことを随分教えていただきました。ペトリナ氏は外務省出身で若い頃早稲田大学に3年間家族と一緒に日本に滞在された経験があります。1980年代にチャウシェスクを批判したため外務省を追われましたが、革命後は民主キリスト教農民党を結成し共産化前の最大の野党であった農民党を率いるマニュー氏と共に政界に出ました。キリスト教を前面に打ち出し、あまりにも純粋で理想的な政策を主張し、かえって議会の反発を買い、私が彼と知り合った頃は党の書記長を辞任したばかりの失意の時でした。政治よりも商売をやりたいと言って私のところに訪ねて来たのです。彼はクルージュ出身でトランシルバニアをこよなく愛する人で、この地方に約300万人いるハンガリー系の人々の状況やブラショフやシビュを中心にドイツ系の人達が数世紀にわたって住んでいるとか、いろいろなことを教えていただきました。彼との思い出は沢山あり、汽車でマラムレシュ地方(ウクライナとの国境付近の盆地地帯)に一緒に行った時は、こんなところがまだヨーロッパにあったのかと感激しました。マラムレシュ地方では未だに村人たちは18世紀以来の民族衣装を着て生活をしています。ちょうどクリスマスの時だったのでお祭りでにぎやかな頃でした。ホテルがないのでペトリナ氏の知り合いのある農家に私達家族は泊めていただきましたが、農家のご主人夫婦の寝室とベッドを私達夫婦に提供していただき、感激したことを思い出します。別の機会にモルドヴァ地方のスチャバにもペトリナ氏と一緒に訪問しました。あの辺りは教会や修道院がいたるところに点在しており、ペトリナ氏の運転する車で教会や修道院めぐりをしましたが、教会の壁には赤や青や緑で壁画が描かれていてこの世のものとは言えない美しい風景になっています。ここは世界遺産にも登録されており最近は図鑑も売っていますので、是非ご覧になってください。
次にステリュウ氏のことですが、彼もチャウシェスク時代は化学品貿易公団ダヌビアナ総裁にまでなった人です。共産主義時代の貿易は政府の貿易公団が独占していました。彼もチャウシェスク批判をしたことから要職を追われ一時は処刑されたとの噂がたった人です。ペトリナ氏と違って彼は商売の才能があり、革命後自分の会社を作って着々と実力を蓄えておられ、私も彼とは化学品や肥料を中心に随分大きな商売をしました。ある時、蓄えた資金を元手にチーズの製造事業を始められました。牛の牧畜から始まって、ミルクをしぼってチーズを製造する本格的な事業で、私達夫婦も開所式に唯一の外国人として招待されました。村の教会の牧師が先導して皆で敬虔な祈りをささげた後、祝福のパーティーを始めるという立派な開所式でした。ミルク不足のことを前述しましたが、さすが商才のある人は目の付けどころが違うと感心したものです。才能のある人やアントレプレヌール(起業家精神)を持った人は如才なくどんどんお金持ちになってゆきました。別の友人は30歳初めにもかかわらず事業に成功し、有名な新体操の美しい女性との結婚式に妻と共に招待してくれました。ルーマニア正教会の立派な教会の荘厳な結婚式で、その後は夜を徹したパーテイーもあるという豪華な結婚式でした。このように平等から公平な社会が進行し、貧しい人達はますます貧しく、一部の新興財閥達はどんどん金持ちになってゆく時時代でもありました。
1994年にペトリナ氏と共にロンドンに行った時に、彼の知り合いの英国及びEUの議員をしている方にお目にかかりました。この方のお兄さんは第二次大戦のベルリン攻防戦で降伏を装ったナチス兵士に撃たれて戦死し欧州戦線で最後の戦死者になった人です。ちょうどその頃英国ではノルマンディー上陸作戦50周年記念で英国・米国・フランスなどの戦勝国はドンチャン騒ぎをしており、一方ドイツやイタリアなどの敗戦国はそのドンチャン騒ぎを冷ややかに見つめ、連合軍が一般市民を大量虐殺したヒロシマ・ナガサキの原爆やドレスデンの爆撃を忘れるな、との論調があり、欧州はお互いシラケていた時期でもありました。たまたま杉原千畝財団の方もロンドンに来ておられました。その英国の議員の方は、勝った国も負けた国も双方が一緒に参加できる記念日がもてる日をいずれ持ちましょう、と発言されペトリナ氏も私も非常に感銘した体験を致しました。 |
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ペトリナ一家 |
クルージュにて |
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