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個人を偲ぶ

り理系だったのだ。応用化学を専攻したという。同じ大学とはいえ、文系落ちこぼれの僕にはほとんど想像できない世界に進んだのだ。
 卒業後は、大阪のケミカル系企業に技術者として入社し、大阪へ。国内留学で静岡大学工学部に再入学し、浜松に下宿して通っていたという。その下宿先の家族の友人が、のちの夫人。初対面からお互いにピピッときて、ごくしぜんに、よっ、おふたりさん! となったようだ。卒業と同時に大阪へ戻り、彼が26歳のとき、結婚。浜松が、彼の生涯を通して、深い因縁の地となったのだ。
 それからしばらく経って、会社からベルギーへ家族ごとの転勤命令。夫人が育児ほかで体調を崩していたときで、とてもいっしょには行かれない。社命に背いて単身での赴任というわけにもいかない。
 すると中村くん、家族を、夫人を選んだ。会社を辞めて、夫人の故郷である浜松へ移住。サラリーマンとして、それはかなりの決意だったはずだ。
 浜松で知られた企業のひとつ、ヤマハ。音楽ではなく、オートバイや船外機のほうの株式会社ヤマハ発動機へ再就職。36歳の頃。エンジンの開発ではなく、六価クロム対策などの周辺の環境汚染対策を中心に研究していたという。

 「ともかく誠実な人でした」 電話口で、夫人は清々しく、こう語る。
 「子どもたちにも、そういう誠実な父親像が一番強く残っているようです。よそのご主人様のことはまったく存じ上げませんが、私は彼の妻としてとても幸せだったと思っています」
 「彼はとても仕事熱心で、お酒も好きでした。家じゃビールを1本飲むだけでなんだかすぐ酔っ払っちゃうなあ、なんて言ってよく笑ってました。仕事関係で飲むときはとても強くて、最近の若いもんは飲まないから自分ばかり飲んでしまう、って」
 「そんなに飲んでも、身体のほうはまったく病気知らずで、そのつい数ヶ月前の会社の定期健康診断でも、結果はぜんぶA。なんの悪いところもなく、予兆もまったくなかったのです」
 それが、2000年9月24日、残暑厳しい日曜日。会社の仲間たちと自社のゴルフコースに出てすぐ、1ホールを終え2ホール目に向かって歩き始めたら、そのままズルッと、崩れ落ちてしまった。
 「心不全でほぼ即死状態です。駆けつけた私は、お医者さまからそう告げられました」
 「私がカトリック信者だったので、彼は日曜になると私といっしょに教会へ行ってくれました。そのうち

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